ユニークな目のつけどころ2009/07/01 06:33

 (『渋沢敬三という人』つづき)

           (3)アイディアとチームワーク

 平安時代末期の庶民は、京都の大路で用便をすませたあと、どのように処理 しただろうか。 当時の、群集の髪のうなじの伸び方、飼猫の頚に紐があって どこかにつながれている様子、子供の所作のいくつか、うずくまり方、お産の 状況、そんな興味深い情景が見られる本がある。 それは、渋沢の遺志によっ て出版された『絵巻物による日本常民生活絵引』(全5巻、角川書店)という 本である。 書物に字引があるように、絵にも絵引が必要だ、絵巻物のなかに その主題目とは別に、なにげなく描かれている民衆の生活や文化を。抜き書き して整理し、索引をつければ、民具研究や庶民生活の研究に役立つにちがいな い、という渋沢が永年抱きつづけたアイディアの実現されたものである。

 渋沢敬三の学問は、目のつけどころがユニークであった。 多くの人の見落 しているものに目をつけ、つぎからつぎへとアイディアを展開して、卑近に見 えるそのテーマが実に無限の広がりをもっていることを、実証してみせた。 例 えば、水産史の研究をどう進めるかといえば、まず魚の名前を集めてみる。 昔 は生きた魚を外国から輸入するなどということは考えられなかったから、魚だ けは日本の物産のうちで、もっとも純粋に日本的であり、魚名には外来語がき わめて少ない。 言葉という意味でも、もっとも古い形をそのまま伝えている。  だから魚名を研究すれば、言語学的にも、魚の流通という面でも、面白いだろ う、人と魚の関係がわかってくるだろうと考える。 次に水産に関して発明や 功労のあった人についての資料を集めてみると、技術がどのように伝播、分布 していったかがわかる。 さらに漁具について調べる。 そのようにして、漁 業と人間のかかわりあいのあらましが、分ってくるというのだ。

人間関係と社会の新しいモデル2009/07/02 06:05

 (『渋沢敬三という人』つづき)  渋沢は、まれにみるアイディアの豊富な人であったが、それは単なる思いつ きではなく、学問の体系と基盤にもとづいていた。 アイディアだけでは学問 にならない。 アイディアが正しく育つような土壌をつくり、適当な環境を整 えることが必要だ。 自分のアイディアだけでなく、他の人のアイディアも一 緒にそだって行くような配慮が要る。 人が仲良く一緒に仕事をすることがで きなければ、本当の仕事、とくに新しい仕事は決して成長させることはできな い。  そう考えた渋沢は、人材を見いだし育成することに力を尽したアチック・ミ ューゼアムでの研究活動に、「チーム・ワークのハーモニアス・デヴェロープメ ント」を待望し、新しい人間関係、新しい社会のモデルを求めたのであった。

諸学の連携と学者への援助2009/07/03 07:01

 (『渋沢敬三という人』つづき)  渋沢はまた、学問が細分化して目標を見失わないように、諸学の連携にも努 めた。 民族学協会会長として、人文科学の各学会によびかけ、昭和25年、 8学会連合、翌年には9学会連合を実現させ、その会長になった。 9学会と は、社会、人類、考古、宗教、民俗、民族、言語、心理、地理で、のちに考古 が脱会して、東洋音楽がこれにかわった。

 渋沢敬三は学問には素人だといつも明言し、自分は道楽に学問をするのだか ら、学者の仕事を尊重するのだといって、学者の面倒をよく見た。 ことに水 産学、農学、医学、民族学、民俗学、理学などの研究者で、渋沢の援助をうけ たものはきわめて多かった。 戦時中、左翼的であるとして弾圧を受けていた 多くの文化人を、かげになりひなたになってかばったり助けたりしている。 向 坂逸郎(さきさかいつろう)は、東大で同級生だった関係もあり、学校を追わ れて困っていた時、渋沢の援助をうけたことを、『学ぶということ』という著書 のなかに書いているという。 渋沢が大蔵大臣だった時、とくに進んで日本学 士院の会員に年金を支給し、またその金額の増額を決定したことを、小泉信三 が特筆している。

人をつくり、博士をつくり、書物をつくる2009/07/04 06:40

 (『渋沢敬三という人』つづき)  亡くなった渋沢に代って、『日本常民生活絵引』の前がきを、研究グループ「絵 巻の会」を代表して書いた有賀喜左衛門は、「絵巻の会」の仕事が渋沢を中心と した同志的結合によって固められていたこと、その芯には学問的で、話ずきで、 あけっぴろげな、明るい教養人としての渋沢の持つ無限の人間的魅力があった ことを記している。

 『世界伝記大事典』(ほるぷ出版)の「渋沢敬三」の項の末尾に、宮本常一は、 渋沢が「多くの人々を結びつける不思議な才能を持っていた」ことを、特に記 している。

 『日本常民生活絵引』の序で、長男雅英は「父の仕事は地味であったが、そ の底には日本の学問や文化の体質を根本的に変えようとする広汎で不退転の企 図があった。 祖父青淵の伝統をうけて、父もまた勇敢な開拓の人であった。  『人をつくり、博士をつくり、書物をつくり、日本の文運の片すみではあって も、またそれがはなばなしいものではなくても、少なくともまがいものでない 文化の一部を築いたつもりである』と父は遺言の中で述べている。 父の仕事 はこれからも、いのちをもってこの国の文運の中で更に生長してゆくにちがい ない」といっている。

大蔵大臣として財閥解体などにかかわる2009/07/05 06:29

 (『渋沢敬三という人』つづき)          (4)戦後日本の再建に果した役割

 昭和17年3月、渋沢敬三は第一銀行副頭取から日銀副総裁に就任する。 敬 三の母敦子は、「第一銀行の頭取になるのは親の七光りであるけれども、栄一が 死んで十年以上たって、とつぜん日銀に迎えられたことは、単なる親の七光り ではない、これで自分も冥土へ行って、夫や栄一にあわす顔がある」と、声を 出して泣いて喜んだという。

 19年春に日銀総裁、終戦直後の幣原内閣では大蔵大臣になった。 大蔵大臣 としての渋沢は、インフレーションの収束に奔走することになり、新円切り換 え、預金封鎖、財産税・戦時利得税の創設、財閥解体などにかかわった。 イ ンフレそのものは容易に収まらなかったけれど、財政破綻の危機はまぬがれ、 国民を飢餓から救うことはできた。

 武見太郎著『戦前・戦中・戦後』(講談社)につぎのような記述がある。  「こ の人はただの華族のお坊っちゃまではなくて、本当に経済学者としてもりっぱ な見識を持っていたし、科学者としてもすばらしいものを持っていたのであっ て、私は戦後の日本のあり方を決めるうえにおいて、渋沢さんが政治家として 果された役割がよほど大きかったことが、あまり世間では知られていないよう に思う。 財閥解体ということがGHQの命令として決められたときに、渋沢 さんは渋沢財閥を率先して解体している。 そして、これに対して徹底的に闘 った三菱財閥の岩崎さんを自ら訪ねて、自分でもこうやった、もう負けた以上 はだめなんだ、といって岩崎さんを説得し、財閥解体に応じてもらって、その 勢いで全部の日本の財閥がGHQのいうことをきいたという話を、私は吉田 (茂)さんから聞いた。 吉田さんはその意味で、渋沢さんを高く買っていた。  もし渋沢さんが大蔵大臣の現職にあり財閥の巨頭であって、それがいうことを きかなければ、日本の財閥解体はうまくいかなかったと思われる。 それがス ムーズにいったというのが、じつにこれは渋沢さん一人の力であるといっても よかった、ということを吉田さんは述懐していた」