女中すみの「戒厳令の夜」2010/10/01 06:53

中島京子さんの特徴の一つに、「歴史上の実際の事件や人物を組み込んで、物 語にリアリティーをもたらすこと」を挙げた。 『女中譚』の「すみの話」で、 すみが昭和10年に奉公した医者の伊牟田先生の奥様はドイツ人、ハーフの娘・ 19歳の萬里子さんはピアニストだった。 昭和4年からピアノの勉強でドイツ に行っていた萬里子さんとイルマ奥様が帰朝するので、すみが雇われたのだ。  その6年間にドイツは大きく変わり、いろいろつらいことがあって、逃げるよ うにして戻ってきた。  2年前1933年5月10日の雨の夜、奥様と萬里子さん は、伯林の目抜き通りウンター・デン・リンデンにある高級ホテル、ホテル・ アドロンで食事をしていた。 招待してくれたのは、タナカミチコという有名 なオペラ歌手で、日本から来ている男の画家といっしょだった。 〈メーソン・ ユメ〉と呼ばれていたその画家は、物語の最後で、日本の名前は竹久夢二だと いうことが明らかになる。 食事中、軍靴の行進と音楽隊の奏でる音が迫り、 あかあかと松明の列が続いて、オペラ座前の大広場で止まった。 そこには本 が積み上げられ、火がつけられた。 男たちは「ハイル・ヒットラー」と叫び ながら、次々に本を火の中に投げ入れ、投げ入れるたびに拍手と歓声が延々と 続いた。 トーマス・マン、シュテファン・ツヴァイク、ハインリッヒ・ハイ ネ、エーリッヒ・ケストナー……。 「ワタシノ愛シタソレラノモノヲ、カレ ラハ、スベテ、焼キマシタ」 イルマ奥様は、その話をするときはいつも、肩 を怒りに震わせて泣いていた。

すみが伊牟田先生のお宅で年を越した二月の雪の日、帝都に戒厳令が敷かれ た。 イルマ夫人はがたがた震えて卒倒し、伊牟田先生はその看病で一日部屋 にこもっていた。 青年将校に肩入れして興奮したお嬢さんに懇願されて、す みは萬里子の部屋でその夜を過ごす。 萬里子は10年前のミュンヘン一揆の 話をする。 ヒットラーがヴァイマル共和国を倒そうとクーデタを起こして失 敗した。 お父様のお友達の斎藤茂吉先生は、その時ミュンヘンにいらして、 歌を詠んでいる、と。 〈おもおもとさ霧こめたる街にして遠くきこゆる鬨の もろごゑ〉〈ミユンヘンを中心にして新しき原動力は動くにかあらむ〉〈をりを りに群集のこゑか遠ひびき戒厳令の街はくらしも〉 その夜、すみと萬里子の間で、何事かが起こることになる。

桂才紫の「黄金(きん)の大黒」2010/10/02 05:54

30日は第507回落語研究会、ようやく涼しくなったが、いくらか蒸す雨の日 だった。

「黄金の大黒」          桂 才紫

「短命」             柳家 三三

「祇園祭」            春風亭 一朝

        仲入

「阿武松」            入船亭 扇辰

「真景累ケ渕より 豊志賀の死」  五街道 雲助

 桂才紫は、大きな声を出す。 師匠の才賀に言われているのだろう。 貧乏 長屋、大家さんが長屋の連中を呼んでいるという。 店賃の催促に違いないと、 いくつ溜めているかを、言い合う。 十八年に一つ、親父の代からというのや、 「タナチンって、何ですか?」とか、「まだ、もらってません」というのまで、 いる。 はしっこい六ちゃんが、大家さんの番頭さんに話を聞いて来た。 大 家さんの坊っちゃんが、長屋のガキと、裏の普請場で砂遊びをしていて、「黄金 の大黒」を掘り出した。 それで、祝いのご馳走をしたいというのだった。 ご 馳走と聞いて、金ちゃんが泣く。 三日ばかし、何も喰っていない、水で命を つないでいた、と。

 大家の番頭が余計なことを言った。 祝いのご馳走だから、羽織と口上くら い必要だ。 紋付を持っているという奴がいた。 紋は五つか、二つか、と訊 かれて、一つ所紋、○に伊勢屋と書いてある。 それは、印半纏。 こないだ、 婚礼に行っちゃった。 ようやく汚い羽織が一つみつかり、とっかえひっかえ、 口上を述べることになる。

 家の前で羽織の取りっこをしている様子を見た大家が、そんなのいいんだよ と言い、ご馳走と酒で、楽しい騒ぎとなる。 金の大黒が俵をかついで、ピョ ンと出て行こうとする。 大家が止めると、「あんまり愉快なんで、仲間の恵比 寿も呼んでこよう」

三三の「短命」2010/10/03 06:23

 三三はグリーン系統の着物に紫の羽織、メクリに出た前座の名前を紹 介する。 柳家おじさん、なるほどと思う眼鏡の顔、権太楼の弟子だそ うだ。 伊勢屋の旦那が三度死んだと言われて驚く隠居、よく訊けば、 美人で評判の、小町のような娘のところに来た三度目の婿が死んだとい う。 最初の婿はいい男だったが、来て二年もしない内に患って三月で 亡くなった。 次は色の黒い、丈夫そうな河豚みたいな顔の婿だったが、 一年半でコロッと逝った。 三番目、オシドリ夫婦というのか、とても 仲良くて、奥さんが旦那にご飯をよそうところを、庭の松の木に上がっ て仕事をしていて、ずっと見ていたことがあった。 その旦那が、ゆん べ、ぽっくり逝ったので、悔やみの文句を教えてもらいたい。

 最初の時は、「このたびは」まで言ったら、料理が並んでいるのが見え たので「ご馳走様」と言ってしまった。 二度目は、女房に尻をつねら れて憶えて「どうも、このたびは…。とんだことになりました。ご愁傷 様でございます」 「完璧だ」 「でも三度目だ、こないだの憶えてい るでしょう。同じでいいんですか」

 三十三は女の大厄というけれど、どうしてこうも続いて旦那が早死に するのか、わからない。 隠居は、番頭がしっかりもので、夫婦は店の ことで何もすることがない、奥の部屋には誰も来ない、朝からすること がなくて退屈だから、短命だ。 ご飯をよそう時にも、指と指が触れる だろう、そこに振るいつきたくなるようないい女がいるんだ、短命だろ う。 なかなか分からなかった植木屋も、仕舞には、触るのが指と指だ けじゃあない、上の方、下の方…、うらやましいような短命と、気付く。  度が過ぎればだ。

 笑いながら、家の前を素通りしそうになった植木屋、いつもは自分で よそうことに決められているご飯を、無理やり女房によそってもらう。  女房が茶碗でしゃくおうとするから、しゃもじを使わせるが、しゃもじ は自分で洗えと言われる。 その女房の顔を見て「おらぁ、長命だ」  例によって、ひょい、ひょいと下がった三三、順調な出来と見たが、 その持ち時間について、ある事実が後に判明する。

一朝の「祇園祭」2010/10/04 06:32

 一朝は、仕事で旅に行くけれど、どこがよかったかと言われると困る、 という。 交通が便利になって、ほとんど仕事だけで帰って来る。 で も喫茶店などに入って、土地の人情にふれ、得した気分になったり、旅 情を感じたりすることはある。 前座になった昭和42,3年の頃、志ん朝 の供をして、山陰を回ったことがあった。 日本旅館で、八畳と三畳の 部屋だった。 お前は三畳で寝てくれと、師匠が言った。 師匠のいび きは有名で、お宅の新年会などで酔った師匠が二階に上がって寝ると、 天井がびりびりしたものだった。 その時は志ん朝と寝られるってんで、 大丈夫です、私もかきますから…。 知らないよ、と八畳に二人で寝た。  夜中に起こされた。 お前のいびきがうるさい。 三畳で寝た。

 江戸っ子の一生の夢は、伊勢参り、帰りに京大坂に寄ることだった。  松、竹、梅の三人組、京都の玄関口、粟田口までやって来た。 湯に入 ってさっぱりして、京の町に繰り込もう、そうしなければ先祖の幡髄院 長兵衛に申し訳がないと、畑のおばさんに尋ねるが「ゆ」が通じない。  江戸のツンツルテンが、大坂でチンチクリン、京でチョンチョロリン、「風 呂屋」と言わなければダメと分かる。 風呂屋でさっぱりして、女郎買 い、おやま買い、路銀がすっかりなくなって、二人は江戸に帰り、京に 伯父さんのいる兄貴分だけが残る。

 祗園祭、伯父さんの具合が悪く、伯父さんの知り合いと二人、梅村屋 の二階で見物する。 江戸のにいさん、京は王城の地、日本一の土地柄 やさかい、カッカッカッ、江戸では軒下軒下に犬がババこく、どこへ行 っても尿(ばり)ばかり、臭い国の反吐が出る、東夷の田舎もんだ、祗 園囃子も「コンコンコンチキコンチキチン、ヒューリヒューリトッピッ ピ」と上品でっしゃろ。 何言ってやがんでえ、威勢のいいのは江戸の 囃子だ、ショウデンてえのは将軍様の昇殿なんだ、「テンテンテンテン、 テレツクテンツクテンツク、スケテンテン、ピィーーッ」とくらあ。 に いさん、御所見物はしましたか、紫宸殿のお砂を握ると瘧(おこり)が 落ちる。 べら坊め、大手の砂利をつかむと、首が落ちらァ。

 一朝、歌舞伎座にも出るという笛の名手だけに、囃子合戦のところが、 ひときわ精彩を放った。

扇辰の「阿武松」2010/10/05 06:51

 扇辰は出てきて、今日は鈴本での五街道弥助改め蜃気楼龍玉の真打襲 名披露の最終日で、師匠の雲助が口上に出ている。 まだ来てません。  つないでいてくれ、と言われた。 それなのに、持ち時間を7分つめた 人がいる。 誰とはいわないけれど、「短命」演った人です。 それで、 長いです。 ゆっくりしゃべります。

お相撲のお噂ですと、「阿武松(おうのまつ)」に入った。 一人横綱 は寂しい、惜しい人材を失った。 華のある横綱だった、好対照でね、 ヒールは必要で。 乱暴狼藉を働いて、協会を出ていくというのは、他 にもあった…。

 「阿武松」は、大相撲で六代目の横綱、阿武松緑之助となる能登出身 の力士の大器晩成の出世噺だ。 武隈という力士兼親方のところに入門 して、尾車という名をもらうが、オマンマを食い過ぎて暇を出される。  戸田川へ身投げをしようとして、板橋の旅篭立花屋で死ぬ前に一度は腹 一杯と、名主さんへの土産代にもらった一分(半月からひと月泊まれる) で食っているのを、相撲好きの主人善兵衛に、これは相撲向きと認めら れ、根津七軒町の錣(しころ)山親方を紹介されて、出世の糸口をつか む。 農業地帯の板橋、米二俵つけるというのを、錣山は辞退する。 25 歳だった。  小柳長吉の名で昇進、ついに武隈関とのワリが出た。 「おのれ、お まんまのかたき」「まんまならない世の中、こめったことになった」

現在の武隈は元黒姫山(友綱部屋部屋付き親方)、この落語を聴いたら、 あまりいい気分ではないだろう。 尾車は元琴風、 阿武松部屋は野球 賭博問題で騒がれ、親方は元益荒尾。 錣山は元寺尾、こちらは、いい 気持になるだろう。 扇辰は、阿武松の錣山部屋への入門時、酒は酒屋 の前を通っても赤くなり、パチンコもしない、野球賭博などとんでもな い、女はそばによっても吐き気がする、好きなのはただオマンマ、とや っていた。