扇辰の「三方一両損」2011/06/01 06:48

 いよいよ白熱の後半戦、と扇辰は始めた。 今日は全員が落語協会、お囃子 さんも前座も…、楽屋は緊張感がまるでない。 落語研究会の楽屋は、いつも ピーンと張り詰めている。 今日は、ゆったりとしていて、いつも美味しい弁 当が出るのだけれど、これに缶ビールでもあれば、という感じ。 「やる気が 出ないよな」と、馬石が言っていた(ニヤッ)。 実は明日、橘家文左衛門、柳 家小せんとやっているバンド「三K辰文舎」のライブを文京シビック小ホール でやる、チケットは好評発売中なので、よろしく、好評発売中です。

 江戸ッ子のお噂、と「三方一両損」に入る。 明日はどうにかなるさ、と江 戸ッ子は金に執着しない。 白壁町(神田駅の東側、鍛治町2丁目付近と田中 優子さんの解説)の左官金太郎が柳原(万世橋付近)で財布を拾う。 三両の 金と印形と書付が入っていて、書付に神田竪大工町(神田駅の西側、内神田3 丁目付近)大工吉五郎とあったので、届けに行く。 煙草屋で訊いて、○に吉 とある張り替えたばかりの障子に穴を開けて覗くと、イワシの塩焼で一杯やっ ている。 もっとさっぱりしたもので酒飲め、言われなくても開けて入るよ、 葉書じゃあるまいし(と、扇辰はやったが、明治じゃあないだろう)。 ほら、 受け取れ。 余計なことしてくれるな、書付と印形は俺のだが、銭はお前にや る。 やるから、持ってけ、持ってかないと、ためにならねえ、張り倒すぞ。  やれるもんなら、やってみろ。 ほんとに殴ったな、バカバカ、と喧嘩になる。  隣で仕事が出来ないと、大家を呼びに行く。 やってる、やってる、いい喧嘩 だ、お前、どっちにいくら賭ける。 大家は、吉公前へ出ろ、お前が悪い、と いうが、吉公は、このくそったれ大家、大家といえば親も同然、晦日の二十八 日にきちんきちんと店賃は払っている、と啖呵を切る。 大家は金太郎に、お 奉行所に訴え出て、吉五郎に謝らせるという。 よれよれで帰って来た金太郎 の、相手が大家に実にいい啖呵を切ったという話を聞いて、白壁町の大家も、 奉行所に願書を出す。

 重要な案件から処理して、こんな下らないのは八ツ(3時)過ぎになる。 南 町奉行大岡越前守、三両は預かりおく、しかしながら正直に愛で、二両ずつ褒 美を取らせる、と。 奉行が一両出したので、三方一両損。 膳部の支度をい たせ。 わりーーよ、でも待たされたんで、腹へっちゃって。 テェだよ、テ ェ。 両人、いかに空腹でも、あんまり沢山、食すなよ。 なに、多くは食わ ねえ。 たった、えちぜん。

さん喬の「たちきり」2011/06/02 06:36

 さん喬は、遊ぶといえば、芸者遊び、女遊び、花柳界という所から始めた。  噺家も昔は一対一、税金の申告のように、差しで聴くお座敷があった。 重み のあったもので、今はめったにないけれど。 芸者の花代を、線香一本立ち切 ると加算して、いくらと計ったものだ。 線香一本で、五十銭から一円と。 田 舎出の女中が、夜中に、線香の束を持って、逃げた。

 若旦那の遊びが過ぎて、旦那は親類を集め、おっしゃる通り処分ということ になる。 静岡の伯父さん、舟で釣りに出て、フカに食わせる。 甲府の伯父 さん、山の奥で炭焼きをさせれば、病気になる、骨も拾わなくていい。 茨城 の叔母さん、そんな酷いことを言わないで、牛の世話をさせる、芳二郎がじれ てひっぱたくと、牛が角で突き殺すから、苦しまないですむ、と。 番頭が、 乞食になって頂くのがいい、金の有難さがわかるからというと、皆、それがい いということになる。 ボロの着物と、荒縄の帯を見て、若旦那が、乞食はい やだ、という。 番頭は、それでは百日の蔵住まい、いやなら乞食といい、芳 二郎は中戸をカラカラ、蔵に入ることになる。

 柳橋の料亭で会った、小糸という十七になる娘芸者、目がキリッとしていて、 しかも女のほんわかした色気がある。 その小糸に、若旦那は、遊び呆けるこ とになった。  身なりのきちんとした若い衆が、お手紙ですと、届けに来る。 番頭が裏を 返すと、「やなぎばし」としてある。 夕方になると、別の若い衆が手紙を持っ て来る。 毎日、二通、ずーーっと続いていた。

 月日の経つのは早いもので、今日百日になりました。 手前のような奉公人 の言うことを、よく聞いて下さいました。 番頭さん、手を上げてくれ。 蔵 の中で、十日、二十日、だんだん自分が見えてきた。 私は自分で働いたこと がなかった。 かえって番頭さん、お前の方がつらい思いをしていたんじゃな いのか。 毎日、手紙が参りましたが、私がお預かりをしていました。 二十 日ほど前から、手紙が来なくなりました、俗に牛を馬に乗りかえるということ を申します。 これが、その最後のお手紙で…。 番頭さん、読んでおくれよ。  「もう、この世では、お会いできまいと思い……あらあらかしく」

 浅草の観音様へと出た若旦那、まっつぐ柳橋へ。 お民、私だよ。 母さん、 若旦那が…。 小糸に一回会いたいんだ、小糸はどこにいる。 小糸は、こん なことになっちまいましたよ、と(逆さの扇子の)白木の位牌。 俗名 蔦乃屋 小糸。 嘘だって言ってくれよ。 嘘や冗談で、こんなことが言えますか。 あ の日も、若旦那とお芝居を観に行くお約束で、夜が明けたばかりからお化粧を して。 昼になって、母さん、私、若旦那にお手紙書いてもいいかしらって…。  夕方、また、母さん、若旦那にお手紙書いてもいいかしらって…。

 今日が、三七日(みなのか)。 小糸の仏壇の前に、私がと若旦那、線香を上 げ、「小糸、堪忍しておくれ」。 (チンチーンと、三味線が鳴り出す) 母さん、 三味線が…。 はい、小糸が「黒髪」しいていますね、若旦那の好きな。 こ の先、妻と名のつく者は、けして持たない、それで堪忍しておくれ、小糸――、 小糸――、小糸――。 (三味線の音が止む)先を、聞かせておくれ。 若旦那、 ちょうど線香がたちきれました。

福沢諭吉は熱海温泉に二度行った2011/06/03 06:49

 福沢諭吉も、熱海温泉に行ったことがある。 ふと、その旅館は、のちに阿 部泰蔵が怪我をした鈴木旅館・別館と同じだろうか、と思ったので、調べ始め た。 『福澤諭吉事典』は、VI表象の「旅行地図」に、世界と日本の福沢の足 跡をまとめてくれているので、とても便利である。 「中部・東海」のページ で、「熱海」には(1)明治3年9月と(2)明治17年6月の二度、行っている ことがわかる。

 そこで『福澤諭吉事典』IX年譜を見る。 明治3(1870)年の5月中旬、福 沢は発疹チフスを発病し、一時は人事不省、危篤に陥ったが、伊東玄伯、石井 謙道、島村鼎甫、隈川宗悦、早矢仕有的、近藤良薫、アメリカ人シモンズ、イ ギリス人ウィルスらが診療看護に当たり、快復した。 (1)9月14日「病後 保養のため、家族ならびに近藤良薫と熱海温泉に出立、二週間滞在。」 (2) 明治17(1884)年6月16日「妻錦を同伴して熱海へ出掛ける。三〇日帰京。」

これが福沢・温泉保養の初体験2011/06/04 06:55

それから『福澤諭吉書簡集』の、その当時の書簡を見てみた。 何と、明治 3年10月22日付の、阿部泰蔵宛書簡があるではないか。 しかも書簡の大意 に【熱海温泉滞在中の世話を謝し、島原藩屋敷地取得交渉の進展、普仏戦争に ついて感想など伝える】とある。 手紙には「入湯中ハ長々御約介罷成難有奉 存候。三島ニテ御別れ申、私共ハ其日湯本ヘ参り両日滞留」とある。 注記を 読むと、阿部はこの時帰省の途中であったが、熱海温泉で福沢と二週間同宿し、 『阿部泰蔵一代記』に記事があるという。 『阿部泰蔵一代記』、インターネッ トでKOSMOSを検索したら、三田の図書館旧館の地下1階にあることがわか ったが、まだ見ていない。 その後、『福澤諭吉全集』第21巻の「書簡集補遺」 にある上の10月22日付書簡の注記に、その記事の引用があるのを見つけた。

 参考文献に富田正文著『考証 福澤諭吉』上があったので、参照する。 337 頁「家族六人と主治医の一人近藤良薫を伴い」、「東京を二日おくれて出発した 門下生阿部泰蔵と甲賀信夫も同宿し、帰途三島で阿部と別れ、箱根を下駄ばき 徒歩で越し、塔ノ沢、湯本に湯治し、更に江ノ島、鎌倉をまわり、金沢に一泊、 横浜に三泊し、十月十日に帰京した。」「この熱海・箱根の湯治が、諭吉の温泉 保養の初体験で、その後はしばしば箱根を訪れ、福住喜平治とも懇意となり、 温泉地開発の相談にも乗り、旅館経営の経済的援助にも力を貸すほど親密にな ったが、この時より前には、温泉に逗留したことはなかったもののようである。」 ということがわかったが、残念ながら、熱海の旅館の名前は判らなかった。

熱海の旅館は相模屋2011/06/05 06:13

 つぎに、(2)明治17(1884)年6月の熱海旅行を、『福澤諭吉書簡集』第四 巻で探す。 6月19日付福沢一太郎・福沢捨次郎宛書簡、大意【熱海旅行のこ となど近況を伝える】があった。 長男・次男は、アメリカ留学中だった。 福 沢は前年の7月頃「レウマチス」で少々難渋し、今年も同じ時節になってきた ので、熱海温泉へ母(妻、錦)を伴って行く事にしたと伝えている。 「十七 日朝熱海相模や江着、養生致居候。二、三週ニテ帰宅之積なり。」 追伸にも、 「尚以、相模やも相替義無之、老主人ハ疾ク死去、今ハ二代目要作之世なり。 倅弁之助ハ慶應義塾ニ在り。両人之事も相模屋ニテよく存し居り、頻りニ噂致 居候。」とある。 旅館の名前は、相模屋だった。 一太郎と捨次郎が、幼かっ た明治3(1870)年9月に家族で熱海に行った時も、相模屋に滞在したことが、 これで判明した。 鈴木旅館・別館ではなかったのである。

 注記から、「倅弁之助」についての記述が、明治17年5月12日付福沢一太 郎宛書簡にあることがわかる。 「熱海之弁さん之事ハ、貴様八才之時之事な り。よくこそ記臆致居ると皆々驚入候。」 注記に、「「弁さん」は熱海温泉の相 模屋旅館の子息石渡弁之助。明治二年生れ、十六年十月入塾。十八年四月まで 在籍した。」とあり、相模屋の苗字が「石渡」であることもわかる。

 6月19日付手紙の追伸の続きに、「母人半溺之旧跡」を通ったという話が出 て来る。 富田正文『考証 福澤諭吉』上によると、こうだ。 明治3年9月 14日、「そのころは、東海道の道中も不自由なもので、熱海に行く途中、湯河 原の門川(もんがわ)には満足な橋もなく、危なっかしい一本橋が架かってい ただけであったが、この日は風雨の強い日で、夫人がその一本橋の半ばで、突 風に煽られ川中に転落した。随行の駕籠屋が飛び込んで夫人を扶(たす)け起 こしたところ、水の深さは腰までしかなかったので一同苦笑し且つ安堵した。」

石河幹明『福澤諭吉伝』も第3巻539頁で、この件について書いているが、 「熱海は明治十一年頃行かれたとき、途中の小橋を渡らうとして夫人が河中に 吹き落とされ、お供の駕籠屋に助けられた事件があつてから餘り行かれなくな つた」と、年も、熱海へ行った回数も、間違っているようだ。

 (都合により、明日の発信は夜になってからの予定です。)