念仏を唱えていれば極楽へ行ける2011/08/07 05:58

 どうしてこの時代に集中して、法然、親鸞、一遍、日蓮、栄西、道元が現れ たのか。 日本では永承7(1052)年に末法に入ったと考えられ、人々を不安に 陥らせていた。 平安末期以来、この末法思想の克服を願った仏教者の真剣な 求道の中から、鎌倉中期頃までに新仏教や南都仏教の復興がおこったのである。

そこで「法然上人絵伝」の、法然(長承2(1133)年~建暦2(1212)年)の生涯。  法然は美作(岡山)生れ、父・漆間(うるま)時国は今でいう警察署長のような押領 使、母は秦氏君(はたうじのきみ)というから渡来系の人だろうという。 9歳 の時、夜討ちに遭い、父を目の前で惨殺される。 松岡正剛さんは、時代の転 換点だったという。 武家社会が到来したが、実際はまだ公家社会で、父はそ の官吏だった。 法然は、父の死、家の死、時代の死、自分の生と死を引き受 けて、考えざるを得なかったというのである。 その日を予想していたか、父 の遺言で、母方の叔父観覚の寺に入り、その才に気づいた観覚は当時の最高学 府、比叡山での勉学を勧める。 源光、皇円に師事して得度する。 17歳で皇 円のもとを辞し、比叡山黒谷別所に移り、叡空を師として修行、戒律を護る生 活に入る。 18歳で法然房という房号を、源光と叡空から一字ずつとって源空 という諱を授かった。 「智慧第一の法然房」と称された。

都は戦火に荒廃し、末法の時代ということで、源信の『往生要集』がもては やされていた。 極楽往生の方法、マニュアルを示したもので、浄土信仰が広 がったが、それは民衆に開かれたものではなかった。 庶民は経典も読めず、 写経はできず、寺院を建立することなど、もちろん出来なかった。 凡夫が救 われる教えはないのか。

法然は20年以上、あらゆる経典をひもとき、承安5(1175)年43歳の時、一 つの教えに出合う。 中国の高僧善導の『観無量寿経疏』(『観経疏』)の散善 義だ。 膨大な教えの中から阿弥陀仏の本願である念仏を選びとり(「選択」せ んちゃく)、その念仏に徹する(「専修(せんじゅ)」)ことで、極楽往生できると いうのである。 ただ阿弥陀仏の誓いを信じて「南無阿弥陀仏」と念仏を唱え ていれば、浄土へ行けるというのだ。 法然自身も一日七万回、昼夜を問わず 念仏を唱えた。 45歳、東山吉水で浄土法門を説き、民衆教化に乗り出し、浄 土宗の開祖となる。