法然の教えは勢力を広げ、大弾圧を受ける2011/08/08 05:28

 東山吉水の法然のもとには、延暦寺の官僧であった証空、隆寛、親鸞らが入 門するなど、しだいに勢力を広げた。 40歳年下の親鸞はこの時29歳、たと え地獄に落ちようとも法然についていこうと決意したという。 文治2(1186) 年、大原勝林院に論客が集まりシンポジウム「大原問答」が開かれる。 建久 9(1198)年、専修念仏の徒となった九条兼実の懇請を受けて『選択(ちゃく)本願 念仏集』を著した。 元久元(1204)年、後白河法皇の十三回忌法要「浄土如法 経(にょほうきょう)法要」を法皇ゆかりの寺「長講堂」で営んだ。

 法然の教えは既存の仏教教団の反発を買う。 元久元年、比叡山の僧徒は専 修念仏の停止(ちょうじ)を迫って蜂起した。 元久2(1205)年の興福寺奏状の提 出が原因の一つとなって、建永2(1207)年、後鳥羽上皇により念仏停止の断が 下され、改元して承元元年、法然は土佐(実際は讃岐)に流罪となる(10か月)。  親鸞はこの時、越後へ配流となる。

  司馬遼太郎さんは、『街道をゆく』で、この間の事情について、「法然の配流 は、気の毒というほかない。/その配流は、後鳥羽上皇のごく私的な感情に発 している。上皇が寵愛していたらしい二人の女官が、法然の弟子のうちの公家 出身の二人の僧と恋愛関係をもったということで、その一件とは何の関係もな い法然とその弟子たちを遠国に流し、教団を事実上壊滅させた。/法然という 人は日本最初の民衆的教団の開創者というにはおよそふさわしくないほどに円 満な人柄で、どうもうまれつきであったらしい。争いを好まず、ひたすら既成 の権威や俗世の権力に対して衝突を避け、自分の思想と信仰を手固く守ってき た。が、結局は満七十五歳という晩年になってくだらないことで大弾圧をうけ、 配流の身になってしまったのだが、しかし一面、浄土教の発展という面ではよ かったかもしれない」と、書いている。