商都津島と勝幡(しょばた)城2011/08/12 05:57

五郎左は、京から連歌師宗長の護衛役として東下りの旅に出た。 鈴鹿峠で 山賊の蟹井団々入道を討ち取るものの、武骨を嫌う宗長に暇を出される。 そ れで東国を見て歩いていたが、名門今川氏の支配する駿河国で宗長と再会、そ の庵、柴屋軒に数カ月滞在したりする。 それで、兵法者だが一応連歌にも通 じている。

そんな五郎左を、ここに仕官しろと、意外坊が連れていくのは、伊勢の大湊 から木曽川をさかのぼった商都、津島の湊に近い勝幡(しょばた)城だ。 木曽 川とその支流の重要性に目をつけた織田信定は、ここに城を構えた。 洪水や 蚊の多い不便さを補ってあまりあるほどの利(湊の税の権利など)を生む城だと いうのだ。

津島は、町衆寄り合いの町だった。 有力者の「年寄」が合議制で町を運営 し、その下に湊の管理・商取引の監視・町の軍事等を行う「会所」がある。 こ の年寄衆と会所衆を四家(しけ)七苗字(七党)と呼び、名家として扱った。 織田 月巌入道信定と、津島の支配権を巡ってしばしば争ったが、大永4(1524)年の 合戦後、信定は自分の娘を町衆の最有力者大橋家に嫁がせて、和睦の証しとし た。

この辺のことを確認しようと、『愛知県の歴史』(三鬼清一郎編・山川出版社) を見たら、こんな記述があった。 「弾正忠(だんじょうのちゅう)家は清須(清 洲)方の重臣として、周辺の中島郡に所領の拡大をはかっているが、一方で信秀 の父信定の代から勝幡(海部(あま)郡佐織町)を本拠とし、津島を領するなど尾張 南西部を基盤として独自の勢力をきずきはじめる。」「津島神社の門前町であり、 伊勢と尾張を結ぶ水陸の要衝で有数の商業都市でもある津島を、親子二代にわ たって支配したことは、信秀の財力形成につながった。」 そのあと、『青銭大名』にも出てきた、天文2(1533)年尾張に下向、信秀の招 きで勝幡に滞在した公家山科言継と飛鳥井雅綱が、城内の館の豪華さや老臣平 手政秀の屋敷の風流ぶりにおどろき、催された蹴鞠に那古野の今川竹王丸(氏 豊)や美濃の成田左京亮が参加、清須からは守護代家の織田達勝(みちかつ)も訪 れている、信秀の権勢ぶりに触れている。 すでに信秀は、守護代家や同僚の 奉行家を敵にまわして対抗しうるほど、旧来の枠組みを越えてその勢力を伸張 させていたのである。