河野裕子さんと永田和宏さん2011/08/18 05:59

へそ曲がりだから、亡くなって一年になるという歌人・河野裕子(かわのゆう こ)さんについての、相次いで出版される本を読もうとは思わない。 ただ、こ のところ新聞やPR誌で、夫君永田和宏さんの文章を二つ三つ読んだ。

河野さんは昨年8月、苦しい息のなかで、亡くなる前日まで歌を作り続けた そうだ。 歌は、生の言葉で伝えるよりはるかに陰翳の深い思いを残しうるの だという思いが、そうさせたのだったろう、と永田さんは言う。 最後は鉛筆 を握る力もなくなり、呟くように口から出てくる言葉を、そばにいる家族の誰 かが書きとった。 最後の一首は、夫君が書き留めた。 そのことを、幸せな ことであったと思う、と書いている。

手をのべてあなたとあなたに触れたきに息が足りないこの世の息が 河野裕子

(『図書』8月号「詠む人・書く人・作る人」)

 河野裕子さんに乳癌が見つかり、手術をしたのと同じ年、2000年の12月に 永田和宏さんは、サイエンスの師である市川康夫先生を膵臓癌で喪っている。  市川先生は、京都大学の結核胸部疾患研究所の教授を務め、癌の研究者として 学会でもよく知られた学者だった。 永田さんは京大を出て、森永乳業中央研 究所に足掛け六年勤めた後、29歳の時、思い切って森永を辞め、京大に戻る。  会社員としての安定した生活から、一転、無給の研究員になった。 妻裕子さ んがあり、三歳の淳さん、一歳を過ぎたばかりの紅(こう)さんがいての失業で ある。 この無茶な選択には、滋賀の広い空と緑のなかで育った裕子さんが、 東京では暮していけないことが徐々に明らかになったことも、大きな要因だっ た。 市川先生のもとで研究し、高校生の塾で物理を教え、歌や評論の注文を ほとんど断らずに受けた、三足のわらじ。 サイエンスはもちろん、映画や小 説の話など、市川先生との夕方の雑談の時間が、ふたりにとって一日のもっと も楽しい時間だった。

 偶然に死の前日に、永田さんは市川先生を見舞う。

  まことに些細なことなりしかど茶を飲ませ別れ来しことわれを救える   永田和宏

 一度は言っておかなければならない「ありがとうございました」のひと言が、 どうしても言えずに病室を出た永田さんに、突然市川さんの声が聞こえた。 驚 くほど大きな声だった。 「永田君、ありがとう」 永田さんも、廊下から「あ りがとうございました」と叫んだが、こみあげてくる嗚咽のほうが強くて、そ れは声として市川さんに届いたかどうか。 これから死のうとしている人に、 感謝の気持ちを伝えるということが、これほどむずかしいものであるとは、と 永田さんは書いている。

  (『波』8月号「河野裕子と私 歌と闘病の十年」第三回)