葦原雅亮、晩年の福沢の思い出を残す2011/08/22 05:38

福澤諭吉協会の熱心な会員に、黒田康敬さんという方がいる。 私も参加す ることに意義があると思って、なるべく顔を出すようにしているから、よくお 目にかかる。 そんな縁で、私のブログを読んで下さっていて、お会いすると 「今朝も読んできました」と言われる。 去年の10月13日・14日に書いた、 福沢のお墓にある高仲熊(萬)蔵・はな夫妻の墓の話を、黒田さんが憶えていて 下さり、ご親切にも高仲萬蔵について書かれた本のコピーを送って下さった。  葦原雅亮著『草枕牛の涎』(昭和26(1951)年・慶應通信教育図書(株)刊)の「福 澤先生の墓」である。

 私は葦原雅亮という人を知らなかったので、まず『福澤諭吉事典』を見た。  II章「人びと」に独立の項目があり、ほかの二か所に記述がある。 「あしは ら がりょう」坊主頭で口髭をはやした着物の写真がある。 明治8(1875)年 ~昭和36(1961)年。 慶應義塾寄宿舎舎監、僧侶。 熊本県天草郡の浄土真宗 本願寺派円教寺に生まれ、明治25(1892)年に慶應義塾に入学、31年に別科を 卒業した。 卒業後は、義塾中年寮舎監、寄宿舎舎監などを勤め、作文などの 講座を担当したほか、塾員名簿の作成や『福翁自伝』の浄書にも当たっている。  この間、鎌倉や京都で修行を積んだが、福沢諭吉が旅費や生活費を工面してく れたという。 福沢の晩年には塾に呼び戻されてそのかたわらにおり、31年の 脳溢血発症後の病状や回復の経緯を記した詳しいメモを書き残した。 回復後、 福沢はみずからの揮毫の落款に「明治卅弐季後之福翁」を用いたが、これを提 案し彫ったのは葦原である。 6月の三田キャンパス一日史蹟見学会の記事に、 福沢が還暦祝いの銅像や、記念品の灯台型の置物を嫌った話を書いたが、その 思い出話を語り残したのも、実は葦原雅亮だったのである。

コメント

_ 帆足 章二 ― 2023/05/08 11:35

こんにちは。
私は、一般の者です。
「帆足先生的収蔵」と云うblogを書いています。
此処に貴方の書かれた葦原雅亮の記事を使わせて頂きました。
どうぞ宜しくお願い致します。

コメントをどうぞ

※メールアドレスとURLの入力は必須ではありません。 入力されたメールアドレスは記事に反映されず、ブログの管理者のみが参照できます。

※なお、送られたコメントはブログの管理者が確認するまで公開されません。

※投稿には管理者が設定した質問に答える必要があります。

名前:
メールアドレス:
URL:
次の質問に答えてください:
「等々力」を漢字一字で書いて下さい?

コメント:

トラックバック