英米から引く手数多だった北里柴三郎2012/09/07 00:32

 体温計、注射器を始めとする医療用製品とサービスの会社、テルモ株式会社 の「医療の挑戦者たち」という新聞広告のシリーズがある。 6月20日に始ま り(朝日新聞)、毎月ほぼ一度、銅版画の絵をバックに、「医療の挑戦者たち」 の知られざるエピソードが紹介されている。 ちょうど6月、北里研究所を見 学して、北里柴三郎に興味があったところに、広告はその北里から始まったの だった。 そもそもテルモは、第一次世界大戦の影響で輸入の途絶えた体温計 を国産化するために、北里柴三郎を始めとする医師たちが発起人になり、1921 (大正10)年に設立された企業なのだそうだ。

 ドイツに留学しローベルト・コッホの研究所で多大の業績を挙げて1892(明 治25)年5月に帰国した北里柴三郎に、日本の学界は冷たかった。 それを救 って伝染病研究所を設立させたのが福沢諭吉だった。 その話を北里研究所見 学記に書いていた時、当時北里柴三郎には世界中からオファーがあった(この 広告で初めて読んだ)にもかかわらず、彼には祖国日本で伝染病予防のために 尽くしたいという強い思いのあったことを、知ったのだった。

 感染症が人類の最大の脅威であったこの時代、世界初の破傷風菌の純粋培養 に成功し、破傷風の血清療法を考案し、その技術をジフテリアの予防に応用す るなど、目覚ましい成果を挙げた北里柴三郎は、引く手数多だったのだ。 ケ ンブリッジ大学からのオファーは、研究所の規模、設備、待遇、すべてが理想 的で、13世紀から続く名門大学の研究所長になることは、北里の名声を不動の ものにする大きなチャンスでもあった。 しかし、北里はあっさり断ってしま う。 アメリカの大学からも、それをさらに上回る条件が示されたが、すべて 丁重に辞退してしまったという。

 微生物学の大家ルイ・パスツールも、イタリアの大学からの招きを断り、戦 災で荒れ果てた祖国フランスで微生物学研究所を開設した。 彼は「科学に国 境はないが、科学者には祖国がある」という言葉を残しているそうだ。

 北里柴三郎が帰る日本には、まだ北里が入るべき研究所すら存在しない。 し かし、北里には国費でドイツに留学させてくれた祖国への感謝と、その期待に 応えたいという気持の高揚があった。 「コレラ、結核、ペスト…多くの感染 症に苦しむ祖国の人たちのために働こう」。  (この広告の監修は、北里英郎北里大学医療衛生学部教授とある。)