県立和歌山中学と、自由民権運動の中学2012/09/26 02:21

 和歌山の中等教育の第二の系譜は、文部省の政策に基づく学校だ。 明治12 (1879)年3月1日和歌山城内の師範学校内に、和歌山中学が誕生した。 最 初の入学生は126名、明治15年に卒業した第一回生は10名、第二回卒業生数 は5名(その中に南方熊楠がいる)だった。 師範学校への転学、東京留学な ど中退者が多かったためといわれるが、曽野洋さんは和歌山中学を凌駕する魅 力的な学舎(英学に特化した第一の系譜の学校)の存在を仮説として挙げた。

 第三の系譜は、自由民権運動との関わりで成立した中等学校。 和歌山の自 由民権運動の担い手は、旧士族ではなく、明治期になってさらに勢力をのばそ うとした紀ノ川筋の豪農層だった。 彼らは政治結社実学社を創り、子弟教育 のために中等教育を行う猛山学校を開設した。 猛山学校開設にうながされて、 共修学舎も設立される。 実学社は明治11(1878)年、那賀郡粉河村(現紀の 川市)で結成された。 実学社「惣代」の一人で、猛山学校設営の中心となっ た児玉仲児は慶應義塾に学んでいて、その活動には福沢諭吉の影響が濃い。

 明治12(1879)年、共修学舎の設立者、本多和一郎は那賀郡池田村(現紀 の川市)の豪農の出、慶應義塾に学び(犬養毅と同級)、入塾時の証人で慶應義 塾の教員や岐阜県師範学校長を務めた海老名晋も共修学舎で教鞭をとっている。  本多にも福沢諭吉の影響が強く、自由民権や国会開設を念頭に、その実現のた めの人材養成の学校を構想したのである。

 本多和一郎は明治17(1884)年、アメリカ人宣教師J・B・ヘールによって 受洗、自由民権運動の挫折もあったのか、共修学舎はキリスト教の色彩を帯び る。 カンバーランド長老教会から派遣され明治10年に来日したJ・B・ヘー ルと、翌年来日の兄A・D・ヘールの兄弟は、明治14年以降紀州での伝道を開 始していた。 この紀ノ川筋にアメリカ移民の多いのは、その影響で、本多和 一郎は共修学舎内に移民相談所を開設した。 ヘール兄弟は大阪女学院の創設 者でもあるという。

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