「国性爺合戦」と「勧進帳」を観る2012/10/15 00:45

 11日、切符を頂戴して思いがけず、新橋演舞場の「芸術祭十月大歌舞伎」の 昼の部を観た。 七世松本幸四郎「追遠」と銘打っている、当代九世幸四郎は 孫、松緑は曾孫。 「国性爺(こくせんや)合戦」と「勧進帳」だった。 

「国性爺合戦」は、近松門左衛門作の浄瑠璃が元で、明朝の遺臣鄭芝竜(て いしりゅう、老一官)の日本亡命中の、日本人を母とする子、和藤内(国姓爺 鄭成功)が、明国再興のために活躍する物語。 史実の鄭成功は、幼名福松、 名は森(しん)、母は肥前平戸の人、田川七左衛門の娘。 7歳のとき、父に招 かれて明に渡り、父とともに福州で明朝復興運動に参加、大将軍となり、隆武 帝(唐王朱聿鍵)から国姓朱氏を賜り国姓爺(浄瑠璃と歌舞伎は国性爺と表記) と呼ばれた。 隆武2(1646)年、父が清朝に降ったのちもこれに従わず、父 の握っていた海上権を受け継ぎ、金門、アモイ両島を根拠地に広東の明政府と 連絡し、連年大陸沿岸を攻略した。 永歴15(1661)年台湾を占領、引き続 き清朝の中国統一を悩ませ、明朝復興と大陸反攻の強化をはかったが、翌年志 を遂げずに病気で急逝したという。

「国性爺合戦」を観ていると、どうしても尖閣諸島からの日中関係のややこ しい問題を、あれこれ考えさせられるのだった。 唐土の兵が鉄砲を持ってい ることや、やや茶化して描かれているのが、興味深かった。 和藤内は、父老 一官の娘(つまり姉か妹、母は違う日本人)錦祥女の婿で、勇将の誉れ高い甘 輝に加勢を頼むが、妻の縁で反旗を翻したと言われては武士の恥辱になるため、 甘輝は妻を殺して加勢しようと言う。 錦祥女は、皆の大願成就のため自ら命 を絶ち、和藤内と甘輝は悲しみを振り払い、韃靼王打倒へと向かうのだった。

「勧進帳」、10日の日記に書いたように、日吉の公開講座で義経の逃避行の 道と芭蕉の『おくのほそ道』が重なること、東北の判官贔屓の話を聞いたあと なので、とくに興味深かった。 「勧進帳」は子供の頃、先代勘三郎の襲名披 露(「もしほ」改メ)で観た記憶があって、60年振りということになろうか。  おそらく七世松本幸四郎や当時の吉右衛門、海老蔵が出ていたのだろう。 弁 慶と富樫、昼夜で交代するのが話題になっているが、昼の部は団十郎の弁慶、 幸四郎の富樫。 二人とも、昼の方が、よく役柄に合っているような気がした。

演舞場は、岩手のアンテナショップ「いわて銀河プラザ」に寄るのが、楽し みの一つだ。 小岩井のチーズ、切り落としベーコンなどを、買って来た。