文菊の「甲府い」後半2012/10/06 02:27

 三年という歳月が流れた。 善吉はよくやってくれるよな、金公が都合で辞 めたが、前より楽をさせてもらっている。 ウチの一人娘のお花、十九、の婿 にして、店を継がせたいと思うんだがどうだろう。 いいじゃありませんか、 とおかみさん。 あとは、お花の料簡なんだが。 もう、聞いてありますよ、 憎からず思っているのは、顔を真っ赤にして「善吉さんなら」と言ったんで…。  善さんに惚れているのは、お花ばかりじゃない、私も…、冗談ですよ。 どう も善吉を見る目付きが違うと思った。

 善さんが何ていうかわからない。 「落ち着け」。 あなたはそそっかしいか ら、私が聞いてみます。 善吉は「お花さんが何ていうか」というので、おか みさん、胸のあたりで、指で○をつくる。 それを聞いた、主は「セガレ」と 言い、気が早いな、と。 吉日を選んで、婚礼となる。 善吉はくるくると、 よく働いて、寝る前に落語全集その三を読む、健全な暮らし。 両親は隠居所 に住むようになる。

 幸せな夫婦になったが、親の心配は善吉の働き過ぎ。 善吉、お花も一緒か、 少し休んだらどうだ、芝居や旨い物でも食べに出かけたらどうだ。 善吉はお 父っつあんにお願いがある、甲府の伯父さん伯母さんに報告したい、身延へ願 ほどきに、行きたい、と。 お花も一緒に行ってくるがいい。 何時、立つ。  明日。 一つ、頼みがある。 隠居所から旅立ってもらいたい、赤のまんまに、 尾頭付きを用意する。

 朝靄の中、着飾った若夫婦、まるで芝居の道行だな。 嬉しいか。 嬉しゅ うございます。 俺も眠れなかったよ。 あんた、鼾かいてましたよ。 赤飯、 もっと食え。 もう十分で…。 腕が落ちたな。

 お光っつあん、こっちへ来てご覧よ、お豆腐屋さんの若夫婦、旅支度して、 とてもきれいだから。 どこへ行くんだろう、聞いてみよう。 お揃いで、ど ちらへ? 「甲府ぃー、お参り、願ほどき」

 古今亭文菊、28人抜きの大抜擢に応える見事な高座であった。 あまりに見 事すぎたので、菊六最後の落語研究会の時に(9月2日の日記)書いたものを、 老婆心ながら再び挙げておくことにする。 「この先「上手いだろう」を表に 出さないよう、ほどほどにするのが、肝要かと思われた。」

抗加齢の「昼懐石」2012/10/07 01:17

 抗加齢ドックというのがあるそうだ。 元NHKの草野満代アナに司会が代 わったテレビ東京「レディース4」で、3日、病気や老化の原因として最近注 目されているという「糖化」を止める三つの方法について特集していた。 解 説していたのは、久保明東海大学医学部抗加齢ドック教授。 その第一が、「懐 石」食べだという。 まず野菜、そして魚、ご飯は最後に、という食べ方だ。

 その日はたまたま、わが家の43回目の某記念日で、東京駅に近い「たまさ か」というお店で「昼懐石」を食べた。 昨年の西岡秀雄先生のお別れの会か らちょうど1年の1日、三田の「社中交歡 萬來舍」で西岡三田会があり、浅 草の旦那である先輩から、食べ物屋は昼がいい、夜と同じ材料を使っていて安 いという知恵を授かってきたところだった。

幸運にも「たまさか」はこの日、献立を新しくしていた。 〔先付〕栗饅頭 …蒸した栗を、胡麻(だと思う)をつけて揚げたものが、旨出し(出汁)の中 に。スライスした栗も揚げた、マロンチップス風の添え。 〔お椀〕鶏丸(と りがん)…われわれ下々でいう「つくね」、蕎麦の実の食感と針生姜の風味、干 して味の凝縮した干し茄子。 〔お造り〕本日の水揚げ…長崎直送の真鯛(皮 つき)と、やいと鰹(腹側にやいと(お灸)に似た斑点があるそうで、五島列 島産か) 〔焼き物〕鰆(さわら)味噌焼き…魚?の味を含ませ、調合した黒 っぽい味噌を塗って焼いたもの、だだちゃ豆(鶴岡が嬉しい)と酢蓮添え。 〔揚 げ物〕きのこ天婦羅…真菰茸(中華料理で使う、中国の池や沼に自生するイネ 科の水生植物の若芽。茎に黒穂菌が寄生してアスパラガス状に太くなった白い 部分を食べる。愛媛産。筍のような食感。)、平茸、銀杏。 〔鍋〕牡蠣鍋…牡 蠣の擂り下ろしも加えた味噌仕立て、大根、人参、白葱を平たく削いだのに、 水菜も加え、味がからみやすくなっている。 〔食事〕鮭腹子ご飯…味噌汁の 実は生海苔、香の物。 〔甘味〕和栗のプリン…三種の中から選んだ。表面の 砂糖を目の前でバーナーで炙ってカラメルにする。

 料理長が蕪(かぶ)を見事に剥いていると、蕪のよい香りが立つ。 皮は、 賄いで化けるらしい。 しかし残暑で、野菜も魚もおいしくなるのが遅れてい るという。 「昼懐石」、それぞれに手間と心が込められていて、まことに美味 だった。 「糖化」を止めて抗加齢に成功し、大満足であった。

 500億かけて復元なった東京駅丸の内駅舎、この日新装開業の東京ステーシ ョンホテルも素見してきた。 「たまさか」料理長の師匠が出したという「し ち十二候(しちじゅうにこう)」も覗いてみた。 音で聞いただけではわからな かった「七十二候」、二十四節気をさらに三等分したもの、季節季節には旬の味 がある、直に俳句に通じる言葉だった。

日吉の公開講座「日本ってなんだろう」2012/10/08 02:01

 土曜日の午後、50年ぶりに日吉の教室に座って、学生気分を味わっている。  第4校舎J24番教室3時限目1時から2時半までと、4時限目2時45分から4 時15分までの二駒。 日吉キャンパス公開講座「日本ってなんだろう」を受講 しているからだ。 9月29日に始まって全8回、副題は「東北の魅力再発見」。  同年輩か、少し上の、それも昨今の文化的な行事一般と違い、男性の多いのが 際立っている。 テーマのせいだろうか。

 初日は赤坂憲雄学習院大学教授の「東北学、新たなステージへ」と、佐谷(さ や)眞木人恵泉女学園大学教授の「東北の義経伝説と文学・芸能」だった。 つ らい話と、興味深い話、それぞれに気持がこもっており、大学の学問に触れて、 強い刺激を受けた。

 赤坂憲雄教授、以前テレビで『遠野物語』を語っているのを拝見したことが あった。 3.11東日本大震災に遭遇して、ご自身が20年間にわたって組織し てきた「東北学」という知の運動が、東北の何がわかっているつもりだったの かという、深刻な懐疑にさらされ、無力であることを悟ったという。 いま一 度、ひたすら被災地を〈あるく・みる・きく〉の旅にとりかかり、生々しい現 実を引き受けながら、「東北学」の再建、第二ステージを創る覚悟を決める。 そ こで考えてきたという一端を披歴してくれた。

 被災地は過疎化、少子高齢化が進んでいた地域だった。 フィルムが早回し され、30年後の世界が早く招きよせられてしまった。 5月、ある半島の三つ の村でコミュニティを解体する解散式があった。 そんな例は、被災地の至る 所にある。 復興の槌音はほとんど聞こえて来ない。 誰もが途方に暮れてい る。 それが現実だ。

 大震災で、東北が製造業、ものづくりの拠点であることが明らかになった。  南三陸のある所では、おばさん達が自動車部品の細かい配線をする仕事をやっ ている。 検査の極めて厳しい作業だが、時給300円くらいという世界なのだ。 賃上げの要求でも出せば、すぐに仕事を引き上げられてしまう。 こういう東 北の下請けの下請けの仕事、アジアにつながる賃金の安い差別の構造が、日本 の製造業を支えているのだ。

鎮魂と供養の民俗芸能、自然との共生2012/10/09 01:37

 赤坂憲雄さんの「東北学、新たなステージへ」の続き。 被災地の〈あるく・ みる・きく〉の旅で、ほうぼうで瓦礫の海の中に鳥居と森と神社が生き残って いる姿を目にした。 高台の神社に避難して助かり、そこを避難所にした人々 の話を聞いた。 震災から2カ月も経たぬ時期に、民俗芸能の復活の動きが始 まっていた。 南三陸町の水戸辺(みとべ)では、海辺から数キロも流された 瓦礫の中から、この地に伝承された鹿(シシ)踊りの衣装や太鼓を探し出し、 避難所で踊った。 まさに鎮魂の踊りとなった。 ほかの地域でも、剣舞や虎 舞などの民俗芸能が一斉に復活を遂げて行った。

 鹿の字をなぜ「シシ」と読むかは大切な問題だ、ここは漁村だが山が背後か ら迫る、海と山の間にひらけた小さな世界である。 昭和30年代まで、人々は 山に入って炭焼きをし、狩猟で暮らしていた。 人間が狩猟して食べる肉のこ とを「シシ」と言う。 いたる所に「鹿踊供養塔」がある。 鹿を仕留めて食 べてきた人々が、鹿の魂を慰めるためだ。 昭和30年代のエネルギー革命で、 養殖漁業にかわっていたのだ。

 震災の夏、お盆の季節には、鎮魂と供養のテーマがあふれていた。 いたる ところに犠牲者たちを鎮魂するための小さな霊場や霊地が生まれていた。 自 動車教習所、大川小学校……、祭壇ができ、花やお菓子や飲み物が供えられ、 壊れた携帯電話、写真、別れを告げる言葉を書いた紙、何人もの名前…。

 コミュニティを支えているのは、神社と寺だった。 地域の精神的な拠りど ころであり、実質的にも集会所や公民館の役割を担っている。 高台にあって 生き残った神社と寺はみな、ことに初期は避難所となり、救援物資の受け入れ 先となって、コミュニティの中核的施設であることをさりげなく示した。

 伝統的な民俗芸能はみな、地域の神社や寺と結びつき、その祭や行事の一環 として受け継がれてきた。 三陸の鹿踊り、剣舞、虎舞もそう。 その掲げる テーマは、死者への鎮魂・供養、魔除けや厄払い、収穫の祈願と感謝といった ものだ。 それはまさしく日本人であるわれわれにとっては、宗教的行為その ものではなかったのか。

 東日本大震災はわれわれに、人間はいかにして自然の荒ぶる力に向かい合う べきなのかという根源的な問いを突き付けている。 生や死について深く考え ることが求められている。 水戸辺の「鹿踊供養碑」には「この世の生きとし 生けるものすべての命の供養のために踊りを奉納せよ」と刻まれている。 そ こには、人間だけでなく鳥獣虫魚から草木にいたるまで、いや、死者や、神仏・ 精霊など「眼にはみえないものたち」までも含んだ共生の世界があった。 科 学技術や経済力によって、すべての自然災害を防ぐことはでないことを思い知 らされた。 人は自然への畏敬を忘れずに、新しい人と自然との敬虔な付き合 い方を学んでいく必要がある。 防災から減災へ。 それはたぶん、日本人が 受け継いできた芸能や芸術、そして文化のなかに、すでに準備されている思想や 哲学のかけらであったにちがいない。 と、赤坂憲雄さんは熱を込めて語った のだった。

「東北の義経伝説と文学・芸能」2012/10/10 00:40

 日吉キャンパス公開講座「日本ってなんだろう」9月29日の二時限目は、佐 谷眞木人(さやまきと)恵泉女学園大学教授の「東北の義経伝説と文学・芸能」。  佐谷教授は、二枚の地図をプリントしてくれた。 義経記関係地図と「おく のほそ道」地図。 松尾芭蕉の『おくのほそ道』の旅は、源義経の都から平泉 への北国落ちを、逆コースで辿りなおし、義経の遺跡を尋ねながら進んで行っ たものだった。 とくに平泉から敦賀までは、ピタッと重なる。 辺鄙な所を 行く、大変な旅行だったろうが、五百年前、義経の通った跡を辿ってみたいと いう熱い思いが感じられる。 その旅が可能だったのは、江戸時代という時代 とかかわる。 道路と治安が整備され、旅行がし易い時代になった。 平和、 元禄、商業の発達、参勤交代、人の行き来、旅籠。

 源義経に関する伝説で、東北地方に関係のあるのは、後半生、兄頼朝と不和 になって後の奥州への逃避行と衣川合戦での最期を描くものが中心で、文学作 品だけでなく、さまざまな芸能にも作品化されている。 とくに仙台藩を中心 とした地域では、近世初期から「奥浄瑠璃」(仙台浄瑠璃、御国浄瑠璃とも)と 呼ばれる芸能が盛んだった。 今は伝承が絶えているが、本は残っている(約 八十曲)。 そこには『尼公(にこう、あまぎみ)物語』『八嶋物語』『義経東下 り物語』などの義経を主人公にしたものが含まれている。

 たとえば『尼公物語』。 奥州平泉へ落ち延びる山伏姿の義経主従は、丸山に 一夜の宿を乞う。 そこは佐藤庄司の妻の尼公が住む館だった。 義経の忠臣、 佐藤継信、忠信兄弟の母で、息子二人が義経に従って出立した折の様子を語る。  それを聞いた弁慶は、継信が屋島合戦で義経を守るため能登守教経に射られた 様子を話す。 佐藤兄弟の遺児、鶴若丸と亀若丸は、継信の死を知って嘆く。  義経はまた、都での忠信の死を語って、尼公に二人の形見の品を渡す。 義経 は二人の遺児の烏帽子親となり、鶴若は佐藤吉信、亀若は信夫義忠と名乗らせ る。