「なぜ松平幕府でなく、徳川幕府なのか?」2013/04/01 06:30

 学校で教わり、試験用にせっせと暗記した歴史が、新しい研究によって手直 しを受け、必ずしも正しくなくなることがある。 3月29日の朝日新聞「天声 人語」が、渡辺浩東大名誉教授の『東アジアの王権と思想』(1997年・東京大 学出版会)に教えられたとして、こう書いた。 「例えば日本史年表に「徳川 家康、江戸幕府を開く」とある。そうだねと思う。ところが、時の中央政府を 幕府と呼ぶことは当時きわめて希(まれ)だったという。ふつうには「公儀」 といった。しばしば「朝廷」とも呼ばれた。京都のことだと思いがちだが、違 う。京都は「禁裏(きんり)」などと称された▼「幕府」とは江戸後期、反徳川 の勢力が用いた「政治用語」だったのだという。徳川政権を皇室の権威の下に 位置づけ、やや軽くみる意味合いが含まれる、と。」

 その前日の28日、落語研究会に行くと、友人が、浅草の先輩のお店に伺っ て、質問を預かって来ていた。 「確かに伝えたよ」と、言う。 その先輩に は、前にも「義塾」や「独立自尊」の意味という強直球の質問を受けたことが あった。 今回は、大河ドラマの『八重の桜』を見ているのだが、「なぜ松平幕 府と言わず、徳川幕府なのか?」と、いうものだった。 そんなことは、考え たこともなかった。 そういえば家康は、たしかに松平だった。 辞書をいろ いろと見る。 家康は松平広忠の長子、幼名竹千代、初名元康。 『広辞苑』 は、こうだ。 「とくがわ【徳川】・・ガハ「姓氏の一つ。江戸幕府の将軍家。 元来は、三河国加茂郡松平村の土豪で、松平を称した。上野国の新田氏(徳川・ 得川氏を称)の後裔として清和源氏の嫡流(ちゃくりゅう)を汲むというのは、 家康が将軍になるために偽作・付会したといわれる。宗家のほか御三家と三卿 の嫡流だけ、徳川を称し、他はすべて松平氏を称。」

 御三家は、尾張(尾州家)、紀伊(紀州家)、常陸(水戸家)。 将軍に嗣子の ない時は、三卿と共に尾張・紀伊両家から継嗣を出した。 水戸家はその特典 がなく、代々副将軍。 尾州家は、家康の第9子義直を祖とし、尾張・美濃お よび信濃の一部を領し、石高61万9千石。 紀州家は、家康の第10子頼宣を 祖とし、紀伊と伊勢の一部とを領し、55万5千石。 水戸家は、家康の第11 子頼房を祖とし、常陸を領し、28万石、綱条(つなえだ)の時から35万石。

 三卿は、徳川氏の支族たる田安・一橋(ひとつばし)・清水の三家の家格。 御 三家の次席。 田安家は、8代将軍吉宗の次男で、国学者・歌人の宗武が、元 服して徳川の家号を許され、江戸城田安門内に邸宅を与えられ田安殿といわれ て興した。 一橋家は、吉宗の4男宗尹(むねただ)が、元服して徳川の家号 を許され、江戸城一橋門内に邸宅を与えられて興し、11代将軍家斉(いえなり)、 15代将軍慶喜を出す。 清水家は、9代将軍家重(吉宗の長子、言語不明瞭で、 側用人の大岡忠光だけがそれを理解できたという)の次男重好(しげのり)が、 徳川の家号を許され、江戸城清水門内に邸宅を与えられて興した。

会津と松平容保(かたもり)2013/04/02 06:32

 会津は、中世には蘆名(あしな)氏、伊達氏、近世には蒲生(がもう)、上杉、 加藤の各氏が領主となり、1643(寛永20)年北東部は会津松平藩領、山がち の南西部は南山(みなみやま)御蔵入と称し幕領になったという。 『八重の 桜』第6回「会津の決意」では、松平容保(かたもり)が政事総裁職の松平春 嶽(慶永)(福井藩主)に初代藩主保科正之の「御家訓(かきん)十五箇条」の 第一条「大君之義一心大切可存忠勤」つまり「徳川宗家に忠勤を努むべし」を 持ち出されて、やっかいな京都守護職を引き受けさせられた。 保科正之は2 代将軍徳川秀忠の四男で、保科氏(信濃の豪族、徳川家康に仕えて大名となっ た)の養子、会津23万石に封じられ、4代将軍家綱を補佐した。

 松平容保は、福沢諭吉と同じ1835年だが、福沢の天保5年でなく天保6年 12月29日の生れ。 美濃高須藩主松平義建(よしたけ)の子、弘化3(1846) 年(11歳)会津藩主松平容敬(かたたか)の養子となり、嘉永5(1852)年(17 歳)会津23万石を襲封、肥後守となる。 同6(1853)年(18歳)ペリー来 航に際し、井伊直弼とともに国書受理に賛成した。 安政7(1860)年(25歳) 桜田門外の変で直弼が横死すると、幕府と水戸藩の調停にあたった。 文久2 (1862)年(27歳)幕政改革で、松平慶永とともに幕政に参与、京都守護職 となる。 京都の幕府勢力を代表し、孝明天皇の信を得て、一橋慶喜とともに 公武合体を推進した。 文久3(1863)年(28歳)八月十八日の政変で尊攘激 派と抗争、元治元(1864)年(29歳)蛤御門(禁門)の変では長州藩を撃退 した。 大政奉還後、慶喜に従って大坂に退き、慶應4(1868)年1月(32歳)、 鳥羽・伏見の戦後、江戸に戻って朝廷に弁疏(べんそ)したが許されず、会津 に戻って藩の兵制改革を断行した。 会津戦争では、奥羽越列藩同盟を結んで、 各地で善戦したが破れ、9月22日(33歳)若松城を開いて降服した。 子の 喜徳(よしのり)とともに、滝沢の妙国寺で謹慎、のち東京に移される。 明 治5(1872)年(37歳)謹慎を解かれる。 明治13(1880)年(45歳)日光 東照宮宮司となる。 明治26(1893)年病没(58歳)。

 『八重の桜』に、松平容保の弟、松平定敬(さだあき)が登場していた。 桑 名藩主、京都所司代を務めた。 三月国立劇場『女清玄』で松若丸をやった中 村隼人が演じている。 容保、定敬の兄二人は、それぞれ尾張徳川家の藩主となり「高須四兄弟」と呼ばれる。 尾張徳川14代藩主徳川慶勝(よしかつ)と、15代茂徳(もちなが)。 四兄弟は実直な性格で、天皇や将軍の信頼を得たが、長州掃討総督になった慶勝と、京都守護の容保・定敬は、それぞれの立場から齟齬をきたした。

「松平」だらけ2013/04/03 06:32

 「松平」で、『広辞苑』に出ているのは、松平容保(かたもり)、春岳(慶永) のほか、つぎの人々だ。 江戸初期の「忠直」…結城秀康の長男、徳川家康の 孫、福井藩主。 江戸前期の「信綱」…老中、川越藩主、伊豆守、知恵伊豆。  江戸後期の「定信」…老中、田安宗武の子、奥州白河藩主、寛政改革。 「治 郷(はるさと)」…出雲松江藩主、茶人、不昧(まい)・一々斎・一閑子。 講 談・小説中の人物「松平長七郎」…駿河大納言徳川忠長の長男という、紀伊徳 川家の庇護の下に江戸・大坂に住み、和歌山で没したとされる。

 2006年の2月22日から、友人堤克政さんの「ちょんまげ時代の高崎」につ いて書いた(駿河大納言事件も、その中にある)。 堤さんは「頼政神社氏子総 代」「高崎城主大河内家の家老等を務めた堤家の十三代」である。 上記の松平 伊豆守信綱、三代将軍家光の老中として島原の乱を収拾するなど功績を上げた “知恵伊豆”の五男信興が分家独立して大河内右京大夫(たいふ)家を興し、土 浦三万二千石の大名になった。 信興の甥で継嗣となった輝貞が、土浦から栃 木壬生を経て、高崎五万二千石に栄進する。 この大河内家が、明治まで十代、 百六十八年間、高崎の殿様を務めることになる。 堤克政さんの堤家は、初代 の幸政という人が、信興が土浦城主として独立し大河内家を興した時、付け家 老として派遣され、そのまま大河内家の家臣になった。 そして二代目堤幸継 が、二代目殿様大河内輝貞に従って、壬生から高崎にやって来た。

 松平大河内家の広大な廟所が、埼玉県新座市野火止の臨済宗の名刹・平林禅 寺にあるのだそうだ。 平林寺の大河内輝貞の墓碑には「高崎城主従四位下侍 従兼右京大夫松平源朝臣大河内輝貞」とあるという。 輝貞の曽祖父が、 松平親綱の養子だったので、江戸時代、公式には「松平」を名乗った。 徳川 家は徳川家康の九代前の有親が、松平氏の娘婿となって松平を名乗った。 家 康以前に分立し幕末まで残った三河以来の松平家は十一家もあった。 家康の 子や孫で分家となったのが十八家もあり、宗家と御三家以外は徳川を名乗れな かったから、これも松平、ほかに一族の結束と安泰のために外様大名にも松平 姓を与えたから、松平だらけになったのだそうだ。 大河内氏は大河内松平と 呼ばれ、高崎の他に三河吉田(豊橋)七万石、上総大多喜二万石の三家がある。

 「源朝臣(みなもとのあそん)」というのは、遠祖を清和源氏の本流である源 頼光四世源頼政としているためで、ここに堤さんが「頼政神社氏子総代」にな っているわけがある。

桂才紫の「武助馬」2013/04/04 06:34

 て、訳で、3月28日は第537回の落語研究会だった。 46年目、1年分の 定連席のカードを、また無事に入手した。 並ばずに継続できるようになった のは、有難い。

「武助馬」    桂 才紫

「安兵衛狐」   林家 正蔵

「つづらの間男」 五街道 雲助

       仲入

「藪医者」    柳亭 市馬

「妾馬」     柳家 花緑

 桂才紫は、才賀の弟子、来年3月真打に昇進して、89年振りの三代目桂やま とを襲名するという。 丸顔で、大きな声を出す。 これまで沢山、真打昇進 披露を笛で手伝って、落語協会の「おくりびと」と呼ばれてきたが、ようやく 自分の番になった、と。

 「武助馬」、三年前に店を辞めた武助が、旦那のところに挨拶に来る。 芸能 のもと、上方で役者になった。 片岡仁左衛門の弟子で、土左衛門、『先代萩』 の鼠を皮切りに、牛や虎をやった。 人の役は? 「用はない、次に下れ」と、 言われて、「ハ、ハ」と言う役。 江戸に戻って、中村勘三郎の向うを張る中村 堪袋の弟子になって頭陀袋、それよりはと本名を選んで中村武助になった。 お とといから、隣町で小屋掛けして、『一谷嫩(いちのたにふたば)軍記』で馬の脚、 後ろ脚を演じているという。

 いい旦那で、酒、つまみ、弁当を誂え三十人を動員して総見、楽屋にも鰻弁 当を差し入れる。 開演時間なのに兄弟子の中村池袋が、昼寝をしている。 上 に乗る熊谷直実、親方の堪袋が鰻弁当を二人前食って重くなったからたまらな い。 三人前食った前脚役の池袋、馬の中でオナラを二発、「二つの屁で驚くな、 奥州のほうには八戸」。 「待ってました、ウシロアシー」の声がかかって、武 助はピョンピョン跳ねる。 張子の馬の首がボキーッと折れて、親方は落馬、 中から顔が出て、馬が丸顔になった。 慌てて幕を締めたのを、前の客が引っ 張って、幕が落ちた。 書割が倒れて、裏の家の塀も一緒に倒すと、裏の家の 庭でおかみさんが行水をつかっていた。 アレーッ、と立ち上がる。 「この 野郎、真面目にやれーッ」。 馬の腹から顔を出した武助「ヒヒーン」と鳴いて、 「何で後ろ脚が鳴くのか」とつっこまれ、「かまいません、さっきは前脚がオナ ラをしましたから」

正蔵の「安兵衛狐」2013/04/05 06:44

 「安兵衛狐」、2009年の暮に桃月庵白酒で聴いて、「白酒の勉強努力は買うが、 あまり聴かない噺はつまらないという常識に、また一例を加えた。」と書いてい る。 正蔵には悪いが、馬鹿に眠くなってきた。 それが噺自体のつまらなさ によるものか、正蔵の技量のせいか、それさえ判然としなかった。

 金杉、次郎兵衛店(だな)に、「へんくつ」源兵衛と、「ノーテン安」の安兵 衛が住む。 二人は仲がいいけれど、向いの連中とは仲が悪い。 向いから亀 戸へ萩を見に行かないかと誘われた源兵衛、行きたいくせに「へんくつ」だか ら断わって、瓢箪に酒をつめ谷中に「ハカ」見に行く。 墓の前で、どんな女 か、色っぽい乙な女かなと、酒を飲む。 倒れている塔婆を立て直す。 盛り 上がっている所をさぐると、舎利骨に当たった。 「あっしは源兵衛、一緒に やりましょう」と酒をかけ、供養して、帰宅。

 夜中「ごめんくださいまし」と、女が訪ねて来る。 「誰?」「ゆう」「おゆ うさん?」「れい」「おれいさん…、ユーレイ、勘弁してくれ」 戸の隙間から 入ってきて、「こんばんは」 いい女だな。 谷中から、回向で浮ばれたお礼、 女房にしていただきとうございます。 生きててもすごいのがいくらもいる、 俺いいよ、と家に置いてみると、これが働き者で、いいかみさんになった。

 隣の「ノーテン安」、タダもんじゃない、出てた、柳の下、この世のもんじゃ ない、でも、おまんまは食わない、下駄履かない、昼間出てこないと聞いて、 酒の仕度をして、谷中に出かける。

 (この辺から、眠くて、メモが怪しい。桃月庵白酒で聴いたのを、そのまま 引いておく)罠で子狐を捕まえた男がいて、訊けば、皮を剥ぐというから、逃 がして下さい、売ってくださいと、二分を一分に値切った。 帰りがけに、お 初稲荷の鳥居の横から若い娘が出て来て、「そこへ行くのは安兵衛さん、私はお こん、生れは王子。 奉公先を出て来て、泊る所がない。 以前から安兵衛さ んをお慕いしていました。 家に置いていただければ、「コン」な嬉しいことは ない」と。

 「へんくつ」と「ノーテン安」が、かみさんをもらったが、どうもおかしい。  源兵衛のかみさんは腰から下が透けて見えない。 安兵衛の所は陽が当って雨 が降っている日が嫁入りだったし、目がきょとんとしていて、耳が立っている。  キツネが化けているんじゃないか、もしかしたら安兵衛もキツネではないか、 と向いの連中が隣町の安兵衛のおじさんを訪ねる。 「安兵衛さんは来ますか」 「安兵衛は「コン」」「あ、おじさんもキツネだ」