天皇陛下、傘寿のお言葉と慶應義塾150年スピーチ2014/06/01 06:52

 昨年12月23日に傘寿、80歳の誕生日を迎えられた天皇陛下は、それに先 立つ記者会見で、つぎのように述べられた。  「80年の道のりを振り返って、特に印象に残っているのは先の戦争のことで す。私が学齢に達した時には中国との戦争が始まっており、その翌年の12月8 日から、中国のほかに新たに米国、英国、オランダとの戦争が始まりました。 終戦を迎えたのは小学校の最後の年でした。この戦争による日本人の犠牲者は 約310万人と言われています。前途に様々な夢を持って生きていた多くの人々 が、若くして命を失ったことを思うと、本当に痛ましい限りです。」

 「戦後、連合国軍の占領下にあった日本は、平和と民主主義を、守るべき大 切なものとして、日本国憲法を作り、様々な改革を行って、今日の日本を築き ました。戦争で荒廃した国土を立て直し、かつ、改善していくために当時の我 が国の人々の払った努力に対し、深い感謝の気持ちを抱いています。また、当 時の知日派の米国人の協力も忘れてはならないことと思います。戦後60年を 超す歳月を経、今日、日本には東日本大震災のような大きな災害に対しても、 人と人との絆を大切にし、冷静に事に対処し、復興に向かって尽力する人々が 育っていることを、本当に心強く思っています。」

 私がまず思い出したのは、2008年11月8日の慶應義塾創立150年記念式典 での天皇陛下のスピーチだった。 紋切型でなく、しかもかなり長くて、ご自 分の言葉で語られている、という感じがした。 私には、天皇皇后両陛下の、 小泉信三さんを通じての慶應義塾への思いが込められているように思われた。  その前半は、こういうものだ。

 「慶應義塾はその創立者、福澤諭吉が、今から百五十年前の安政五年、一八 五八年に江戸に蘭学塾を開いたことに始まりますが、この蘭学塾が開かれた一 八五八年は、日本にとっても誠に重大な年でありました。それまで日本は、ほ ぼ二百年にわたり鎖国政策を続けていましたが、嘉永六年、一八五三年に来航 した米国艦隊のペリー提督との交渉の結果、もはやその政策を維持することが できなくなり、米、英、仏、露、蘭の五カ国と修好通商条約を結び、開国に向 かって歩み出しました。一八五八年は、これらの条約を調印した年でありまし たが、開国支持者と、それに反対する勢力が争う中での、厳しい出発でありま した。このような困難な状況の中で、世界の情勢と欧州の文物を、オランダ語 を通して学んでいた人々が、開国した日本を支える上に、重要な役割を果たし ました。申すまでもなく、福澤諭吉はその一人であり、著作を通じ、また慶應 義塾の教育を通して、我が国の人々に大きな影響を与えました。そうした中、 日本は修好通商条約調印から三十一年にして、大日本帝国憲法を発布し、翌年 には、第一回帝国議会を開くまでに近代国家としての制度を整えるに至ってい ます。長い平和な鎖国時代に国民が文化を享受し、国民の識字率も高い状態に あったとは申せ、このように短期間に国が発展した陰には、当時の志ある人々 が、いかばかり努力をしたかとの思いを深くするのであります。」

小泉信三さんの東宮職参与2014/06/02 06:39

 私は、今村武雄著『小泉信三伝』(小泉信三先生伝記編纂会)で、天皇陛下と の関わりを少し読んでみることにした。 「塾長を辞す」(小見出し「東宮職参 与」)と「ヴァイニング夫人」の章である。 小泉信三さんが「東宮の学問に関 する重要事項に参与すべし」という御沙汰を受けたのは、昭和21年4月だっ た。 皇太子殿下は、学習院中等科へ進学されたばかりで、色の黒い12歳の 少年だった。 昭和天皇の意向を受けて、田島道治宮内庁長官が、何度も内意 を伝えたけれど、小泉さんは健康その他の理由で容易に承諾しない。 田島長 官は、かつて金融界で懇意な関係にあり、しかも人格者として尊敬していた池 田成彬に仲介を頼む。 池田はながらく慶應義塾の評議員会議長として、小泉 塾長を支えてきたが、公職を辞して後、大磯に隠棲していた。 池田は、都電 に乗って来訪し、この際、皇室の安泰を図るため皇太子御教育のことは最も大 事なことではないか、ひとつ奮発して、一生懸命やってもらいたい、と説得し た。 小泉さんは、もはや断る術を失い、承諾したという。 池田は三田から 都電で宮内庁に行き、その旨田島長官に報告、田島が用意させた乗用車を固辞 して、テクテク坂下門を出て、東京駅の方へ歩み去ったと、『池田成彬伝』394 頁の田島道治談に、あるそうだ。

 毎週2,3回、規則正しく小金井の東宮仮御所へ通った。 皇太子は学習院中 等科に通学しながら、ヴァイニング夫人の個人教授を受けていた。 この夫人 を招聘して皇太子の教育に当らせるという考えは天皇ご自身から出たもので、 多くの候補者から選ばれて、昭和21年秋、来日した。 小泉さんの参与はま ず、直接殿下に御進講するのではなく、殿下の踏まれる教育課程をどのように 設定するかという顧問会の審議に加わることから始まった。 「まず獣身を成 し、しかる後に人心を養え」という福沢の教育方針によるものだろう、昭和22 年秋、石井小一郎が殿下のテニスのコーチに選ばれた。 慶應庭球部の先輩と しての石井のコーチは厳しいという定評があった。 14歳の殿下は学校、個人 教授、御進講、見学その他の日課が盛りだくさんのなかで、毎週1回、3,4時 間をテニスの練習に割かれた。 その年の9月に、小泉さんは天皇陛下に福沢 諭吉について御進講申し上げ、11月には皇太子殿下に福沢の『帝室論』につい て御進講申し上げた。 小泉さんがかねて期待した、将来、天皇として国の表 徴となられるような人格が形成されるよう、体力と知力のバランスのとれた教 育が、実行に移されたのであった。

 ヴァイニング夫人は、学友を選んで、ともに学び、ともに遊び、生活する仕 組みを工夫して、殿下の対人関係を円満で豊かなものにするように努力した。  夫人の語学やマナーに関する教育は、昭和24年6月27日、殿下がひとりでマ ッカーサー元帥との会見に成功されることによって、その成果が実証された。  同行した夫人の報告を聞いた小泉さんは、日記に「ヴァイニング夫人帰来、殿 下元帥御会見の様を語る。その面は花のごとく輝やきて、その声少女のごとく 高し」と記した。

 小泉さんやヴァイニング夫人も招かれた昭和24年12月23日の殿下御誕生 祝いの晩餐会から間もなく、暮の28日に小金井の東宮仮御所が全焼した。 漏 電によるものと伝えられたが、殿下は葉山に行っておられて無事だった。 年 があけた昭和25年1月下旬から、渋谷の常盤松御殿が東宮御所として使われ るようになった。

皇后さまと「五日市憲法草案」2014/06/03 06:31

 昨年10月、皇后さまが誕生日を前に、宮内庁記者会の質問に対する文書に よる回答で、憲法について、つぎのように述べられた。 ずいぶん、はっきり とした勇気ある発言だと、驚いた。 宮内庁のホームページから引いておく。

 「5月の憲法記念日をはさみ、今年は憲法をめぐり、例年に増して盛んな議 論が取り交わされていたように感じます。主に新聞紙上でこうした論議に触れ ながら、かつてあきる野市の五日市を訪れた時、郷土館で見せて頂いた「五日 市憲法草案」のことをしきりに思い出しておりました。明治憲法の公布(明治 22年)に先立ち、地域の小学校の教員、地主や農民が、寄り合い、討議を重ね て書き上げた民間の憲法草案で、基本的人権の尊重や教育の自由」の保障及び 教育を受ける義務、法の下の平等、更に言論の自由、信教の自由など、204条 が書かれており、地方自治権等についても記されています。当時これに類する 民間の憲法草案が、日本各地の少なくとも40数か所で作られていたと聞きま したが、近代日本の黎明期に生きた人々の、政治参加への強い意欲や、自国の 未来にかけた熱い願いに触れ、深い感銘を覚えたことでした。長い鎖国を経た 19世紀末の日本で、市井の人々の間に既に育っていた民権意識を記録するもの として、世界でも珍しい文化遺産ではないかと思います。」

 「五日市憲法草案」、名前しか聞いたことがないので、調べてみる。 昭和 43(1968)年五日市(現、あきる野市)の深沢家の土蔵で、色川大吉東京経済 大学教授らによって発見された。 人権意識の成熟度において、明治初期につ くられた私擬憲法の中で屈指のものとされ、民衆憲法として反響を呼び起こし たという。 自由民権運動が高まり、明治13年11月10日第二回国会期成同 盟大会が東京において開かれ、その際、憲法起草が議され、翌明治14年10月 に予定された第三回大会に、各自草案を持ち寄ることが決議された。 五日市 の民権家たちは、勧能小学校訓導の千葉卓三郎(起草者といわれる)を中心に 学習結社、五日市学芸講談会に集い、私擬憲法草案の作成に当った。 学芸講 談会の会員39名は、名主や組頭家の跡取り息子が多く、年齢は20代以下が四 分の三を占めている。 大地主は3,4名、あとは中農、土地を全く持たない者 もいた。 五日市だけでなく、周辺の村々、青梅、八王子、横浜などからも参 加している。 その土蔵で草案が発見された深沢家は、深沢村の名主で、名生 (なおまる)、権八の親子、有力な山持ちで、千人同心の株も持っていた。 そ の土蔵には、大量の書籍があり、当時東京で出版された新刊書の7,8割は揃っ ていたという。 親子で千葉卓三郎を高く評価していたらしい。

明治14年、日本の曲り角2014/06/04 06:31

 自由民権運動が高まり、「五日市憲法草案」がつくられた明治13年、14年と いえば、交詢社が発会し、その「私擬憲法案」が発表され、明治14年の政変 が起った時期に重なる。

 明治10年の西南戦争後、福沢は政治の方向として民会、そして国会の設立 という目標を提示していった。 明治12年夏の福沢の『国会論』の頃から、 国会開設運動が盛り上がってきた。 愛国社が再興されて民権運動が高まると、 福沢も文筆や門下生を通じて運動を支えたが、民権論者が「政権」にばかり関 心を持ち、「民権」そのものの拡張に無関心であると批判し、まずは人民の気力 を充実させることが重要であるとした。 その手段の一つとして「智徳見聞」 の拡大、そのための修学や討論の促進が必要だと主張した。 「知る所を人に 告げて、知らざる所を人に聞くは最も大切」と説き、「知識を“交”換し世務を 諮“詢”する」ことを目的に、明治13年1月25日、交詢社を創設した。

 当時政府部内で最も有力、進歩的な参議大隈重信(肥前佐賀出身)が、明治 14年3月、15年末に選挙、16年に国会開設、それも議院内閣制によるという 急進的な意見書「大隈参議国会開設奏議」を提出した。 交詢社では、その意 見書を起草した太政官大書記官矢野文雄をはじめ、小幡篤次郎、中上川彦次郎、 馬場辰猪らが集まり、憲法の研究を重ね、その成果として「私擬憲法案」がま とめられ、明治14年4月25日の『交詢雑誌』に発表された。 これとほぼ同 文のものが5月20日から6月4日の『郵便報知新聞』に「私考憲法草案」と して連載され、広く社会に流布した。

 これより先、明治13年末、井上馨から福沢に「官報」(といっても政府が支 援する責任ある「新聞」)の発行への協力依頼があり、国会開設の決意も聞かさ れた。 明治14年1月には、福沢、井上に伊藤博文、大隈も加わって、交歓 の場が持たれた。

 大隈重信が、明治天皇の東北北海道巡幸に供奉して旅行中、薩長藩閥の政治 家が相謀ってその罷免を決め、10月11日大隈が帰京すると、御前会議で大隈 参議の罷免、北海道開拓使官有物払い下げの中止、明治23年の国会開設が決 定され、翌日発表されたクーデター類似の事件が「明治14年の政変」である。  政変は、大隈が福沢や三菱の岩崎弥太郎と謀って、政府を転覆しようとしたと いう流説があり、政府上層部がそれを信じたため起ったようである。 大隈の 辞職とともに、慶應義塾出身者で官吏になっていたものは、ほとんど一斉に罷 免された。 矢野文雄、犬養毅、尾崎行雄の名がその中にある。 政変で、「官 報」発行の話も立ち消えになり、福沢は自分で『時事新報』を創刊することに なる。

明治14年の政変によって、井上毅(こわし)の起案によるプロシャ型憲法 にもとづく天皇制国家体制の方向が定まったのである。 明治22(1889)年 大日本帝国憲法発布によって、立憲君主制の国家体制が確立し、明治国家の基 礎が据えられた。 これより少し前から、啓蒙思想の政府からの排斥が始まり、 復古的な教育、徳育の復活も行なわれた。 井上毅と元田永孚(ながざね)が 起草した明治23年の教育勅語の発布は、呪縛力の強い言説空間をつくり出し、 その演じた役割は大きい。

台所鬼〆の「狸の鯉」2014/06/05 06:30

 5月30日は暑い日だったが、第551回の落語研究会があった。 仲間の二 人が行けないというので、声をかけた私の友人二人に落語世界を味わってもら った。

「狸の鯉」        台所 鬼〆(だいどころ おにしめ)

「道灌」         柳家 喬之助

「笠碁」         柳亭 市馬

     仲入

「短命」         柳家 権太楼

山田洋次作「頓馬の使者」 柳家 さん喬

 坊主頭で白い羽織の肩を怒らせた台所鬼〆、どこの一門か、誰の弟子か、見 当がつかないだろうが、柳家花緑の弟子だという。 台所鬼〆は、五代目小さ んの気に入りの名前で、入門する見習いに付けよう付けようとするのだが、弟 子百万人、ことごとく断る。 誰も付ける者がいない。 前座3年目の忘れも しない2月3日、花緑が毎年行っている静岡の寺に、豆撒きに行った。 ゲス トが市馬師匠で、お茶を出すのに、ふるえて、お茶をこぼした。 花ごめ(か ごめ、前座名)、二ッ目になったら鬼〆にするぞ、と言われた。 私は変なもの が好きなので、その名を付けたいと言うと、花緑が喜ぶ。 一門が喜ぶ。 み んなで、目出度い、目出度い、と祝ってくれた。 台所鬼〆は、そういう目出 度い名前なのだが、気に病んだのは両親。

 八公が罠にかかった小狸を、買い取って逃がしてやった。 (高い可愛い声 で)コンバンハ! その狸です。 親父が腹を叩いて感心して、人間にしてお くのは惜しいと、お礼かたがた恩返しに来ました。 恩を返さないと、人間同 様と怒られる。 布団はないが、俺と「おかしわ」になって寝るか。 私は自 分のを広げて寝ます。 そうか、千畳敷というな。 小狸なので、ほんの四畳 半。 お休みなさいませ。 ひどい鼾だな、なんだ、目を開けているんじゃな いか。 狸寝入りで。

 お早うございます。 小僧に化けたな。 先祖が茂林寺の分福茶釜でして…、 何に化けましょうか。 兄貴の所で子が産れた、目出度い祝いの品、鯛はどう だ。 鯛、知らない。 色の赤い魚だ。 赤いのは、ちょっと…、赤いのは踏 ん張るとオナラが出る。 鯛が屁して、ヘイタイ。 じゃあ、鯉に化けろ。 目 をつぶって、手拍子を三つ、お願いします。 これは、鯉幟だ、もっと小さく なれ。 こすると、小さくなります。 縦にこすると、魚になる。 鼻の穴を 出して、水をはった岡持に入れて持って行こう。

 おめでとうございます。 見事な鯉だな、出世魚だ、うれしいじゃないか、 どこでとった。 山で。 川だろ。 いえ、山で罠にかかったのを助けた。 鯉 の洗い、鯉こくにして、一杯やろう。 あっしは、帰えります、仕事、どうし ても行かなきゃあならねえ。 「行くぞ」。 誰に言っているんだ。

 半公が、料理しましょう、と。 この鯉、熱がある。 鯉は魚の侍という、 三べんなでると、覚悟を決めるそうだ。 この鯉、ヒゲが5、6本ある。 欲 張りなんだろう。 何だか俺のことを睨んでいる、鯉がひっかいた。 あれっ、 鯉がいない。 尾で立って、庭の薪を昇って行くぞ。 あれが本当の、鯉の薪 昇り。