青木功一著『福澤諭吉のアジア』読書会 ― 2015/01/05 06:33
暮の12月20日に刊行された福澤諭吉協会の『福澤手帖』163号に、「「青 木功一著『福澤諭吉のアジア』」読書会に参加して」を書かせてもらった。 東 京大学名誉教授の平石直昭さんを講師に、7月5日三田キャンパス南校舎445 号室で開かれた『福澤諭吉のアジア』(慶應義塾大学出版会・2011年)の読書 会の記録である。
私はその終わりに、「私はかねてより、福沢が朝鮮の独立と近代化に尽力し ながら、現在、韓国や北朝鮮で伊藤博文や豊臣秀吉に次いで嫌われていると聞 いて、さぞや福沢は無念だろうと思っていた。そして、アジア諸国の独立と近 代化に少なからぬ影響を与えながら、アジア侵略論の創始者と誤解されている 福沢の名誉回復に努めたい、と。今回の読書会に参加して、その考えを強力に 補強していただいて、大変嬉しく有難かった。」と書いた。
平石直昭さんは、こんな話をしていた。 最晩年の丸山眞男が、戦後、福沢 諭吉が日本帝国主義のイデオローグといわれるようになったことに、二つ疑問 を出していた。 (1)近代日本の歴史を「脱亜」の歴史として捉える見方の 妥当性は如何か。 近代日本は本当に「脱亜」したか。 実際には国家神道、 国体論など、アジア的なものが強く残った。 だから「脱亜入欧」で近代日本 を捉えるのはおかしい。(2)福沢の「脱亜論」をどう理解するか。 「脱亜 入欧」は福沢の言葉ではない。 また「脱亜論」は甲申事変後の時局的な政策 論にすぎない。 つまり「脱亜」は福沢理解のキーワードにはならない。
では「福沢=アジア侵略路線の元凶」説の起源はどこにあるか。 丸山眞男 は「明治国家の思想」(公刊は1949年だが、講演は46年10月、東大での歴研 の連続講演、のち岩波『丸山眞男集』第4巻)で、次のようにのべた。 福沢 は民権論と国権論が同時的課題であることを古典的に定式化したが、明治14 年の政変以後、民権論と国権論は離れ始め、日清戦争で完全に分裂した。 そ してこの戦争の勝利で福沢は、長年の対外的独立の危機感から解放されて一時 的錯覚に陥った。 日本の近代化には、その先にますます大きな困難があるは ずなのに…。 この講演を遠山茂樹が聴いていたのはほぼ間違いなく、そこか ら遠山は、福沢には日清戦争論の源流としての「脱亜論」があるではないかと 「日清戦争と福沢諭吉-その歴史的起点について」(1951年『福沢研究』第6 号、のち『遠山茂樹著作集』第5巻)を書いたと、推測される。 服部之総は 「福沢諭吉」(1953年12月『改造』、のち『服部之総著作集』第6巻、理論社、 1955年)で、福沢がナショナリズムの悪しき伝統にとらわれたという遠山を批 判して、逆に福沢こそその伝統をつくったタフな絶対主義者だったとした。 こ の遠山、服部の流れが、安川寿之輔の『日本近代教育の思想構造』1970年10 月、新評論、などの所説につながる。
丸山は誰が福沢「脱亜論」、近代日本史=脱亜史という見方を流行らせたのか、 別個の研究を要し、戦後の研究史を跡づける必要があると断りつつ、竹内好の 名をあげている(『丸山眞男回顧談』下巻)。
以上、福沢の「脱亜論」に関連する誤解についての部分だけ、平石直昭さん の話を引いたが、詳細は『福澤手帖』163号をお読みいただきたい。
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