天皇の語った開戦と、敗戦の原因2015/08/14 05:51

 ○9月6日の御前会議(昭和16(1941)年)

 「九月五日午後五時頃近衛(文麿首相)が来て明日開かれる御前会議の案を 見せた。之を見ると意外にも第一に戦争の決意、第二に対米交渉の継続、第三 に十月上旬頃に至るも交渉の纏らざる場合は開戦を決意すとなつてゐる。之で は戦争が主で交渉は従であるから、私は近衛に対し、交渉に重点を置く案に改 めんことを要求したが、近衛はそれは不可能ですと云つて承知しなかつた。」「私 は軍が斯様に出師準備を進めてゐるとは思つて居なかつた。」

 「翌日の会議の席上で、原(嘉道)枢密院議長の質問に対し及川(古志郎軍 令部総長)が第一と第二とは軽重の順序を表はしてゐるのではないと説明した が、之は詭弁だ、と思ふ。然し近衛も、五日の晩は一晩考へたらしく翌朝会議 の前、木戸(幸一内大臣)の処にやって来て、私に会議の席上、一同に平和で 事を進める様諭して貰ひ度いとの事であつた。それで私は豫め明治天皇の四方 の海の御製を懐中にして、会議に臨み、席上之を読んだ。」

 〈注〉明治天皇の御製<四方の海みなはらからと思ふ世になど波風の立ちさ はぐらむ>

 ○開戦の決定(昭和16(1941)年)

 「実に石油の輸入禁止は日本を窮地に追込んだものである。かくなつた以上 は、万一の僥倖に期しても、戦つた方が良いといふ考が決定的になつたのは自 然の勢と云はねばならぬ、若しあの時、私が主戦論を抑へたらば、陸海に多年 錬磨の精鋭なる軍を持ち乍ら、ムザムザ米国に屈服すると云ふので、国内の与 論は必ず沸騰し、クーデタが起つたであらう。実に難しい時であつた。その内 にハルの所謂最后通牒が来たので、外交的にも最后の段階に立至つた訳であ る。」

 「十二月一日に、閣僚と統帥部との合同の御前会議が開かれ、戦争に決定し た、その時は反対しても無駄だと思つたから、一言も云はなかつた。」

 ○「ルーズベルト」大統領の親電

 「私は短波で、「ルーズベルト」から親電が来るであらうといふ事は豫め知つ てゐた、木戸も心配して待ち受けたが一向来ない、どうなつたのかと思つてゐ ると、遂に十二月八日午前三時に東郷(茂徳外相)が持つて来た。之に付て「グ ルー」大使は自ら拝謁して渡し度いと云つた相である。」

 〈注〉によれば、日本の電信局が受信した時刻は七日正午であるというのに、 グルーが親電を受けとったのは、七日の午後十時半前後という遅い時間なので ある。事実は、中央電信局が陸軍中央の命によって、受信してから十時間も配 達を遅らせていたのである。

 ○敗戦の原因

 「敗戦の原因は四つあると思ふ。 第一、兵法の研究が不充分であつた事、 即孫子の、敵を知り、己を知らねば(ママ)、百戦危からずといふ根本原理を体得 してゐなかつたこと。 第二、余りに精神に重きを置き過ぎて科学の力を軽視 した事。 第三、陸海軍の不一致。 第四、常識ある首脳者の存在しなかつた 事。往年の山縣(有朋)、大山(巖)、山本権兵衛、と云ふ様な大人物に缺け、所 謂下剋上の状態を招いた事。」

 ○小磯内閣 の〈注〉に、「米内(光政)が海相に就任する場合、現役復帰の 問題がおこった。天皇は「米内を現役に復せしめ海相につけよ」といった。こ のようにさまざまな情報を耳にしている天皇の姿が、今回の発言で明らかにな っている。米内に対する天皇の信用の絶大さは、東条・嶋田とは別の意味で注 目される。」 木下道雄『側近日誌』の天皇発言、「鈴木首相と米内海相とは、 政治的技術に於ては近衛に及ばなかったけれども、大勇があったのでよく終戦 の大事を為し遂げたのである。」