西南戦争への福沢の運動と、言論の自由 ― 2016/02/27 06:25
つづいて富田正文先生の「西南の役と諭吉の運動」。 このように、西郷に対 し未見の知己の感をいだいて敬愛の念をもっていた福沢が、西郷暴発の報に接 したときの驚きと悲しみは、察するに余りあるものがある。 福沢は、維新第 一の功臣たる西郷にむざむざ賊名を付して討伐するとは、まことに忍び難いと ころであると、一篇の建白書を書いた。 しばらく討伐令を発することをやめ、 彼が政府に尋問の筋があるというならその申し条を確かめ、然る上で何分の処 置に及ばれたいとの趣旨だった。 そのとき塾にいた中津出身の猪飼麻次郎、 中野松三郎の両名に旨を含めて、旧中津藩士族の連署で京都の行在所(あんざ いしょ・天皇行幸の際の仮のすまい)に捧呈させようとした。 ところが臨戦 態勢のため船便が容易に得られず、また旧中津藩士の連署調印にも手間取って いる間に、征討令が出てしまった。
そこで福沢は建白書を書き改め、一時休戦を行い、臨時裁判所を開いて薩摩 人の代表をそこへ召喚し、その言い分を訴えさせ、理非曲直を審判して、公平 至当の処分を下すことを希望するという趣旨にした。 東京師範学校教員須田 辰次郎を大阪へ行かせ、そこで旧中津藩有力者五名の連署調印を得て、これを 京都の行在所に捧呈させた。
富田先生は、当時、政府に向かってこれだけのことを堂々と主張し得る者は、 そうザラに居るはずもないので、その文書の執筆者が誰であるかは容易に推定 できるから、福沢が自分の名を建白書に掲げなかったのは、建白書としての体 裁を整えるために中津士族の連署を用いたのであって、この建白書に関して自 分の存在を秘するつもりは少しもなかったと見てよいと思う、とする。
福沢が、明治8年から11年ごろまで、身辺の雑事や所感などを随時記した 「覚書」と題するノートがある。 その西南の役の頃に、(交通と言論の自由な 交流が問題を解決するとして、言論取締りの悪法である讒謗律、出版条例、新 聞紙条例を憎んで)「薩摩の乱も余が先年の考の如く、東京より鹿児島に一線の 鉄道を通じたらば、事なくして済みしことならん。」、「薩摩の乱の如きも之を三、 四年の前に注意して自由自在に擾攪すれば、余輩一本の筆を以て幾万の兵を未 発に防ぐ可き筈なりき。俗吏の為す禍も随分大なるものなり。」「著書新聞演説 の本趣旨は、世人一般政府までをも我説に導入るゝに在り。之を敵視するは器 量の小なる者のみ。」とある。
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