大原孫三郎という人(略歴)2016/04/01 06:33

 まず大原孫三郎を『日本歴史大事典』でみておく。 「おおはらまごさぶろ う(1880(明治13)~1943(昭和18))実業家、社会事業家。岡山県窪屋郡 倉敷村(現、倉敷市)の大地主、大原孝四郎の次男。1897(明治30)年東京 専門学校(現、早稲田大学)に入学、1901(明治34)年学窓を離れて帰郷後、 直ちに父が中心になって設立した倉敷紡績会社に入社。長兄の死去により、家 督を継承したのち、1906(明治39)年倉敷紡績社長に就任、同社の役員が中 心となり設立した倉敷銀行頭取も兼任。土地経営の拡大に努める一方、電力事 業(倉敷電灯、備作電気)をおこして倉敷紡績の電化を促進した。また倉敷紡 績の労務管理の改善、合理化にも意を用い、その「人道主義的労務管理」は、 業界でも注目された。著名な社会事業家の岡山孤児院長石井十次(じゅうじ) などに感銘を受けてキリスト教に入信。岡山孤児院事業の拡大、大原農業研究 所(前身は1910(明治43)年設立の大原奨農会)、大原社会問題研究所(1933 (昭和8)年)その他数々の社会事業を展開。また文化事業への関心も深く、 倉敷天文台、倉敷図書館を設立しているが、なかでも注目されているのは日本 で最初の西洋近代美術館大原美術館の設立(1930(昭和5)年)で、その文化・ 社会事業は、当時の実業界でも異彩を放っていた。事業家としても、倉敷絹織 を設立し、中国銀行頭取に就任、倉敷商工会議所会頭など要職についた。」

 補足して、『ブリタニカ国際大百科事典』には、「倉敷絹織(クラレの前身)」 「高野岩三郎を迎えて大原社会問題研究所(現法政大学大原社会問題研究所) を設立し、日本の社会問題研究の水準向上に貢献、ほかにも大原農業研究所(現 岡山大学農業生物研究所)、倉敷労働科学研究所(現日本労働科学研究所)を設 立したとある。 『百科事典マイペディア』には、「倉敷紡績(現クラボウ)」 「京阪電鉄重役等十数社の役員を兼ね、関西実業界で活躍した。大原の経営理 念はキリスト教精神にもとづく温情主義的な労務管理であった。」「(キリスト教 社会事業家)石井十次の意志を継いで大阪に石井記念愛染園を設立。」

大原孫三郎、若い時の失敗挫折と大転換2016/04/02 06:28

 『日本歴史大事典』が「1897(明治30)年東京専門学校(現、早稲田大学) に入学、1901(明治34)年学窓を離れて帰郷」としているのには、深い事情 があった。 兼田麗子著『大原孫三郎―善意と戦略の経営者』(中公文庫・2012 年)に、若い時の失敗挫折と大転換の物語がある。  天領、幕府直轄地だった倉敷には、代官所から委任された中間的・民主的な 行政・支配機構が存在していた。 自分たちの生活と地域を、合議制に基づい て自主的にコントロールするといった、民衆参加型の共同体運営が行われる、 自由で大らかな、自治、責任の歴史的風土があった。 祖父の大原壮平もまた、 自由な企業家精神を持ち、家業であった米穀問屋と呉服商に加えて、金融業も 営むようになる。 明治維新以降、物価高騰と土地制度改正のあおりで窮乏し、 農地を手放す農民が増加したが、壮平は多くの農地を買い集め、大地主となっ た。

父孝四郎は、祖父壮平に見込まれて、縁続きの藤田家から養子に入った。 儒 者の家の出身、漢籍に明るく、書画を好み、大原家に来る前は俳句も詠むなど、 風流を愛する文人だったが、同時に目新しいことは積極的に着手する側面があ って、養家では勤勉さと独創性によって、引き継いだ家業を発展させた。 孫 三郎は、父が47,8歳の時の子供で、誕生の1年後、長男の基太郎が20歳で急 逝、姉は二人いたが、大原家唯一の男の子となった。 甘やかされて育てられ、 癇癪持ちで気性の激しい子供になっていった。

孫三郎は、高等小学校と、閑谷黌(しずたにこう・岡山藩主池田光政が設立 した郷学)で二年弱学んだあと、上京して東京専門学校(現、早稲田大学)に 入った。 親元を離れ、自由な広い社会で新しい人たちに出会う中で、次第に 学校での勉学から遠ざかっていく。 金持の子だというので、寄って来て集(た か)る「友人」と称する人物もいて、当初の洋食食堂や芝居、寄席から、悪友 に誘われるがまま花柳界へも足を踏み入れるようになる。 やがて高利貸から も借金をして遊ぶようになり、借金がかさみ、正月にも帰郷できなくなり、姉 卯野の夫の原邦三郎によって連れ戻されると、東京の高利貸が倉敷の大原家ま で追ってきた。 父孝四郎は、「どこの者ともわからぬ若者によくぞ貸して下さ った」と言って、高利貸を歓待し、ひとまず東京にひきとってもらったという。  借金は元利合計で1万5千円にも上っていた(しかし元金は1万円には満たな かった)、総理大臣の年俸が1万円という時代である。 義兄原邦三郎が、東 京で高利貸と交渉に当るが、その滞在中に脳溢血で32歳で死亡した。 邦三 郎は孝四郎に内緒で、借金の返済をしていたが、その死後、遺志を継いだ代理 人や知人たちのおかげで1万円を支払うことで片がついた。

 この件は、孫三郎が青年期において深く自省した最初の大転機であり、生涯 の呵責であったにちがいない。 東京の下宿仲間の友人、11歳年上の森三郎(高 等商業学校(現一橋大学)学生)は、二宮尊徳の『報徳記』を送ってくれ、倉 敷で悔恨と自責の日々を送っていた孫三郎は、読書に多くの時間を費やすよう になり、福沢諭吉の『学問のすゝめ』『福翁百話』『西洋事情』『文明論之概略』 なども読んだ。 東京遊学後の謹慎中、自家の小作人の田畑をまわり、その生 活状況などを直接見聞した際にも、孫三郎は自分の過去の行いと境遇を顧みた と思われるという。

孫三郎の小学校時代の親友で、倉敷の老舗の薬種商、林源十郎は同志社で学 んだ信仰の厚いクリスチャンで、家業に熱心な人格者として周囲の尊敬を集め ていた。 林は孫三郎に聖書を読むことを勧め、岡山孤児院の運営に奮闘して いた石井十次を紹介した。 孫三郎の精神と人生は、十次との交流によって大 きく転換していくことになる。

理想の実現に、科学や学術に解を求める2016/04/03 07:05

 兼田麗子さんの『大原孫三郎―善意と戦略の経営者』を、さらに読む。 大 原孫三郎21歳、1901(明治34)年9月22日の日記には、「神が生(自分のこ と)をこの社会に降(くだ)し賜わって、而(しか)も末子である生を大原家 の相続人たらしめられたのは、神が生をして、社会に対し、政治上に対し、何 事かをなさしめようとする大なる御考に依るものだと信ぜざるを得ない。この 神様より生に与えられたる仕事とは生の理想を社会に実行するということであ る」と、書いているそうだ。 使命感に目覚めた孫三郎は、その後、工場労働 者のための宿舎や生活必需品の販売制度など福祉施策を実践したが、それが単 に労働者の利益を増すばかりでなく、経営者の利益を増大するものであると確 信していた。 博愛的な人道主義を唱えるだけではなく、経営者としての「能 率の経済」という観念も保持して、企業の買収や合併を進めていった。

 「余がこの資産を与えられたのは、余の為にあらず、世界の為である。余に 与えられしにはあらず、世界に与えられたのである。余は其世界に与えられた 金を以て、神の御心に依り働くものである。金は余のものにあらず、余は神の 為、世界の為に生れ、この財産も神の為、世界の為に作られて居るのである」 と考えるようになり、この理想や使命感を生涯持ちつづけた。 小作争議が起 こっていた時期の大正8(1919)年3月、孫三郎は、小作人に一種のボーナス、 一年限りの利益分配を行った。 経済社会的格差の拡大によって労働運動や社 会運動が頻発するようになった時代、孫三郎は、地主と小作人、労働者と資本 家の利害は一致する、従って共存共栄を目指さなくてはならないと考えた。

 孫三郎は、息子の總一郎に、経験にもいろいろある、今までにやったことの ないことをやって失敗するのが本当の経験であって、今までやったことをもう 一度間違ってやるというようなことは誰でもやる、それは経験のある人間とは いえない、と語っていた。 孫三郎は、経験だけで対処すること、それまでの 事柄を単純に踏襲することは是としなかった。 常に独創的見解(「主張」と言 った)を求め、顕示、実践すること、それまでの誤りを正すことを自らにも課 し、周囲にも求めていた。 一人ひとりの人間や民衆の生活レベルにまで目を 向けた経営や社会づくりを追及したが、キリスト教的な人間愛だけで物事を解 決できるとは考えていなかった。 科学や学術に解を求めようとする特徴があ った。 社会の問題が起こらないように、事前に問題の芽を摘み取らなくては 意味がないと考えた。 そのようなこともあって、孫三郎は、先進的な科学研 究所をいくつも設立した。 大原奨農会農業研究所、大原社会問題研究所、労 働科学研究所である。 それを兼田麗子さんは、孫三郎と接点のあった大内兵 衛が、学者に衣食の心配のない待遇を提供し、成果不問の自由な研究が可能な 学問研究所をつくってみたいという、福沢諭吉の「夢」を実現したものだと書 いている(『大内兵衛著作集』第12巻、岩波書店、1975年、25頁)という。  福沢は、その夢を明治26(1893)年11月11日に慶應義塾で語っている。(163 頁に引用。『福澤諭吉全集』第14巻195-198頁・「人生の樂事」『時事新報』 11月14日論説)

孫三郎と児島虎次郎、大原美術館の創設まで2016/04/04 06:29

 大原孫三郎、その人についての話が長くなったが、ようやく芸術支援、大原 美術館と日本民藝館である。 大原美術館は、大原孫三郎と画家・児島虎次郎 の友情に端を発している。 児島虎次郎は、東京美術学校(現東京藝術大学) 西洋画科専科で黒田清輝などに師事し、青木繁と同級だった。 明治35(1902) 年、虎次郎は、大原家が有為の学生を支援していた大原奨学生の面接を受け、 画家になる目的を聞いた孫三郎に、「真に優れた画を描いて美術界に貢献した い」と答えた。 孫三郎は虎次郎の誠実さに打たれ、生涯手厚い支援を続ける ことになった。 明治40(1907)年に、虎次郎は東京府主催勧業博覧会の美 術展に二作品を出し、一等入選と昭憲皇后の目にとまり宮内省お買い上げとな った。 大喜びした孫三郎は、虎次郎に5年間もの欧州留学をプレゼントした。

 大正8(1919)年にも二度目の欧州留学を許可する。 このとき虎次郎はロ ンドンに到着するなり、「日本人の若い画学生のために、本場の名画を蒐集して 帰りたい」と孫三郎に絵画購入を希望する葉書を送った。 しばらくの時を経 て、「絵を買ってよし」という許可を孫三郎から得た虎次郎は、画商に頼らず、 自分の眼識にそった作品を買うべく、モネなどの画家を直接訪ねて絵画を蒐集 した。 モネの「睡蓮」やマティス、コッテ、デヴァリエールなどの西洋絵画 を蒐集した虎次郎は大正10(1921)年に帰国した。 孫三郎は、大原邸近く の倉敷小学校新川校舎で「現代仏蘭西名画家作品展覧会」を開催、倉敷駅から 会場まで長蛇の列が出来た好評に驚いた。 その年末には、虎次郎がアマン= ジャンに購入を依頼していた作品が到着して第二回、大正12(1923)年には 第三回の展覧会が開催され、全国から人が訪れた。

 虎次郎も石井十次の岡山孤児院に頻繁に出入りし、写生などを行った。 石 井十次も虎次郎を気に入り、十次の長女友子が児島夫人となった。 虎次郎は 美術館建設の構想を孫三郎にもちかけ賛同を得ていた。 美術館創設を念頭に、 さらなる絵画蒐集のため、虎次郎は大正11(1922)年三度目の渡欧をした。 妻 友子への手紙に「今回も大原様の特別なる加護を受けたる事を感謝すればする ほどに、今回の旅行は非常なる責任と義務を要すべきことにて、とても一通り の力にては勤まり申さずと存じ候。ただ天命の導きによりてこの重命を全うす べく誓い申し居り候。」と書いている。 兼田麗子さんは、この書簡から、虎次 郎を信じて欧州に送った孫三郎と、それに精一杯にこたえようとする虎次郎の、 二人の信頼関係を見ている。

 虎次郎は昭和4(1929)年3月に脳溢血のため47歳で亡くなってしまう。  世界恐慌で経済的に困難な時期であったにもかかわらず、孫三郎は、虎次郎の 作品、そして虎次郎が蒐集した西洋絵画を展示する美術館の建設に着手する。  設立趣意書に「生涯を通じて研鑽に心血を傾倒」した虎次郎の画業を「誠に感 嘆に値した」といい、「いささかなりとも同君の生前の仕事が斯道に志す人達或 は一般愛好者の御役に立てば仕合せと思います」、「将来此美術館が少しでも世 に貢献する所があれば児島君も地下に満足する所であり、私の微意もその目的 を達する次第で御座います」と書いた。

 昭和5(1930)年、西洋美術を紹介する日本初の本格的美術館、大原美術館 が、東京でも大阪でもなく、倉敷の地に誕生したのである。

孫三郎の民芸運動支援2016/04/05 06:27

 兼田麗子さんの本から、大原孫三郎の日本民藝館―柳宗悦たちへの支援にも、 触れておく。 孫三郎は「文化というものは中央に集まるのはよくない。地方 にあるからこそよいのだ」という考えを持っていた。 倉敷や岡山の経済、生 活、知識、文化レベルを向上させることを第一の使命ととらえていたためだ。  倉敷では大正10(1921)年に倉敷文化協会が設立され、美術品展覧会と文化 講演会が催されるようになった。 孫三郎は常々、倉敷にはこれといった土産 物がないので、地域に根づいた文化的産物が必要だと考えていた。 特産物の 候補として、木工品、酒津(さかづ)陶器、藺草製円座などに着目し、製作活 動を支援するようになった。 この倉敷の民芸運動とでもいうような活動は、 児島虎次郎を中心に、その死後は孫三郎の主治医・三橋玉見、大原美術館初代 館長・武内潔真などがリードした。

 三橋も武内も元大原奨学生で、三橋が孫三郎と濱田庄司や柳宗悦などの民芸 運動家を結びつけた。 孫三郎は濱田の作品に傾倒するようになり、昭和7 (1932)年には濱田の作陶展覧会が倉敷商工会議所で開催され、このとき初め て柳宗悦と会い、民芸論や民芸運動について詳細な話を聞き、柳たちを支援す るようになった。 そして柳、濱田、河井寛次郎、富本憲吉、バーナード・リ ーチ、芹沢銈(「金圭」)介などが、頻繁に倉敷を訪れるようになり、倉敷の民 芸熱が高まっていった。

 柳宗悦が日本民藝館設立の構想を初めて実際に語ったのは、大正15(1926) 年の高野山だったという。 それから10年の運動を経た昭和10年5月、柳が 野州地方のもと長屋門として用いられた石屋根の建物を、自分の家として移築 したのを、孫三郎が見に来た。 卓を囲んだ話が民芸に及ぶと、孫三郎は「十 万円程度差し上げるから、貴方がたの仕事に使って頂きたいと思うが、凡そそ の半額を美術館の建設に当て、残りの半分で物品図書などを購入せられてはど うか」と言った。 これによって柳たちが永く希願してやまなかった日本民藝 館は実現することとなり、昭和11(1936)年10月14日駒場の日本民藝館は 開館式を迎える。

 用と美を両立する民芸の推進者に共鳴した孫三郎は、民芸作品を積極的に生 活に取り入れて、自らも身をもって普及の一翼を担った。 京都北白川の別邸 の庭が完成したさいには、民芸茶碗や手造りの水差しなどを使って茶会をした。  河井の蓋物に焼き芋を入れたり、濱田の大皿にカレーライスを盛って客に出す など、人を招いては使い方を示した。

 大学・高等教育の地方化ともいえる倉敷日曜講演会は倉敷の民衆を、倉敷労 働科学研究所は倉敷紡績の工場労働者を、大原農業研究所は倉敷の農民を、岡 山孤児院支援はまさに生活難のあおりを受けた民衆の子供を見据えての支援で あった。 民芸運動の支援も含め、多岐にわたる孫三郎の社会文化貢献事業の 根底には、民衆重視の姿勢があったのである。

 柳宗悦は、軍国主義や権威主義を嫌い、日本の朝鮮統治にも紙上に異論を発 表するなど、信念を実践する行動力と反骨精神を持っていた。 孫三郎もまた、 子息總一郎が、「反抗の生涯だと自らもよくいって」いた、「多くの事業への意 欲は、一種の反抗的精神に根差し、あるいはそれにささえられたものがまれで なく、単なる理想主義的理解だけでは解釈しがたいものが多々その中にあ」り、 「何か決意する時は、いつも、何らかの感情的な反発を動機とするのが常であ った」と述懐しているという。 反抗心、迎合しない態度という特徴で、両者 は共通し、孫三郎が民芸運動に共鳴して、多大な応援をしたと考えられると、 兼田麗子さんは書いている。