中上川彦次郎書簡の板垣後藤外遊費2016/10/01 06:17

 「中上川彦次郎書簡 山口半七宛」(明治15年11月24日付)について、『福 澤手帖』43号(昭和59年12月20日)、山口一夫さんの「明治十四年政変後 の中上川彦次郎書簡」を読んでみた。 当時、中上川彦次郎は、明治14年の 政変の余波を受けて、その年の10月に外務省権大書記官公信局長の職を退き、 翌明治15年3月に、福沢の創刊した時事新報の経営に当たるため、慶應義塾 出版社(後の時事新報社)の社長に就任した。 山口半七にこの書簡を送った のは、それから半年余りを経た頃で、彦次郎は数え年29歳だった。 数年後 に時事新報の経営が軌道に乗ると、山陽鉄道社長に転じ、晩年は三井銀行の専 務理事として快刀乱麻を断つ手腕を発揮したが、明治34(1901)年48歳の若 さで亡くなった。

 山口一夫さんは、反アカデミズムの民間史家と呼ばれたという白柳秀湖著『中 上川彦次郎伝』の「井上家文書の整理から端なくも明るみに出された板垣退助 洋行費の出所」という一節に、こうあるという。 洋行費支出の話は最初後藤 象二郎、井上馨、福岡孝弟らの旨を受けた岩村通俊によって、三菱の岩崎弥太 郎に伝えられた。 しかし、三菱との話合は不調に終わり、話は改めて三井に 持ち込まれた。 三井では総支配人の三野村利左衛門の養子で日本銀行副長の 職に在った三野村利助が仲に立ち、山縣有朋も立ち合って、陸軍省の官金取扱 受託の期間を延長することを見返りに二万ドルの支出が決まったという。 そ して板垣後藤両人の洋行費が三井から出たことは現在では通説になっており、 萩原延壽著『馬場辰猪』や後藤靖著『自由民権』などにも同じ見解が示されて いる。

 山口一夫さんは、彦次郎書簡で注目すべきことの一つは、「福沢先生も種々尽 力」とある点だとする。 福沢が両人の洋行ないし洋行費の調達に尽力した話 は、石河幹明の『福沢諭吉伝』にも、前掲の白柳秀湖、萩原延壽、後藤靖の著 書にも出ていない。 その頃福沢はしきりに官民調和論を唱えており、後藤象 二郎とは高嶋炭坑譲渡の世話をするほど親しい間柄だったので、あるいは洋行 の実現に尽力したとも考えられるが、一方明治14年政変直後のその頃、政権 の座にあった伊藤博文や井上馨と感情的に対立していた福沢が、伊藤、井上の 政治的謀略とまで言われる板垣、後藤の洋行に進んで尽力したかどうかは疑問 である、とする。

 もう一つ注目すべきことは、彦次郎は洋行費の出所が三井にあったことを知 らなかったらしい点である。 奇しくもこれから十年足らず後、彦次郎は三井 の人となり、やがて「大番頭」となって、三野村利左衛門の立場に立ち、しか も三野村とは違って、藩閥政府への情実融資を断乎拒否して三井の再建に辣腕 を揮うことになるのである、と山口一夫さんは書いている。

クロマティが敬遠球を打った試合2016/10/02 06:46

 9月27日、東京ドームの巨人-中日戦をBS日テレで見ていた。 巨人は DeNAに急追されて、2位を死守するためには残り5試合に3勝が必要だった。  先発はマイコラスと、小熊凌祐。 2回チーム今季初、小林誠司のスクイズで 取った虎の子の1点を、4回プロ2年目井領雅貴の初本塁打で同点にされ、そ のまま1-1で延長戦になった。 10回裏、無死一・三塁のチャンス、打順は 阿部慎之助に回った。 中日は満塁策を取り、田島慎二投手は阿部を敬遠しよ うとする。 ワンボール、ツーボール。 その時、解説の水野雄仁が言った。  「クロマティがこれ(敬遠球)を打ったことがありましたね。」

 その試合、出来て3年目の東京ドームで観ていた。 1990(平成2)年6月 2日(土)、巨人-広島戦、9回裏一死二塁、金石昭人投手がウォーレン・クロ マティを敬遠しようとしていた。 3球目の高い球だった。 その敬遠球をク ロマティが右中間に打って、西田真二外野手の頭を越えるサヨナラ・ヒットと なった。 クロマティは、もちろん万歳。 スタンドも万歳。 その話をして いたら、一緒に観ていた家内も、万歳!万歳!とやって、隣のおじさんが、家 内を見ていたほうが面白い、と言ったのだそうだ。

 さて、27日の巨人-中日戦、田島は無事阿部を敬遠して満塁。 だが、続く 村田修一が、ライトオーバーのサヨナラ満塁ホームランを打ったのであった。  5-1、ホームインする村田をみんなで迎え、村田のヘルメットを持って走る奴、 水をかける奴、大騒ぎだった。 巨人にとって、2位死守に貴重な一勝となっ た。

 クロマティといえば、同じ27日のNHKテレビ『知恵泉』「上野を制圧せよ! 幕末の天才軍師 大村益次郎」(重なったので、録画で見た)でも話題になって いた。 ゲストが、西武ライオンズで森祇晶監督時代の名コーチ伊原春樹。  1887(昭和62)年11月1日(日)西武ライオンズ球場、巨人2勝-西武3勝 で迎えた日本シリーズ第6戦。 巨人1点、西武2点の8回、2アウトで一塁 にランナーに辻発彦(次期西武ライオンズ監督)がいた。 一番秋山幸二がセ ンター前にヒット、3塁コーチの伊原は、辻に本塁突入を命じた。 日頃、ク ロマティの内野への返球が、山なりなことを、観察してノートに付けていたの だ。 本塁セーフ、日本一を決める貴重な駄目押し点となった「伝説の走塁」 である。 この試合、勝利投手は工藤公康、敗戦投手は水野雄仁だった。

 最近、ベンチでファスナー付きの手帳にメモしているコーチや選手を、よく 目にする。 昔から、観察とメモは、侮りがたいのであった。

大村益次郎の知恵、現場主義と最短距離2016/10/03 06:19

 そこで、大村益次郎である。 先人たちの底力『知恵泉』は、その前週も「戦 の勝ち方教えます~幕末の理系男子 大村益次郎~」だった。 大村益次郎は「数 学や物理がわからなければ、世の中のことはわからない」と言っていたという。  近田雄一アナが居酒屋『知恵泉』店主、いつもの山本博文東京大学史料編纂所 教授と松村邦洋に、ゲストは理系だという西松屋(乳幼児用品、小児用雑貨専 門店)の大村禎(示貞)史社長。

 大村益次郎の村田蔵六は文政7(1824)年に長州、周防国吉敷郡鋳銭司(す ぜんじ)村の医者の長男として生まれた。 弘化3(1846)年大坂へ出て、緒 方洪庵の適塾でオランダ医学、兵学を学び、3年で塾頭になった(福沢諭吉が 適塾に入ったのは安政2(1855)年)。 嘉永6(1853)年27歳で故郷鋳銭司 村へ帰り医者をしていたが、嘉永6(1853)年ペリーの黒船が来航、安政元 (1854)年宇和島藩に仕官する(番組では、藩の要請でなく「押し掛けた」と 言った)。 殿様の伊達宗成は「黒船をつくれ」と命ずる。

 大村益次郎の知恵、その一は「本(ほん)より証拠」。 宇和島藩はオランダ 語の書物や資料を沢山集めていたが、益次郎はそんなものは読まずに、長崎へ 行き、外国船の実物を見る。 蒸気船の構造などの調査を3か月して来て、よ うやく本を読みこみ、具体的なプランをつくる。 現場主義だ。 安政2(1855) 年、蒸気船のひな形が出来て、海で走らせると、殿様は喜んだという。 安政 3(1856)年、藩主の参勤にしたがって江戸へ出て、幕府の洋学研究所、講武 所教授となる。 桂小五郎にひっぱられて長州へ、文久元(1861)年38歳で 藩の洋学所、博習堂教授となる。

 益次郎の知恵、その二は「最短距離を進め」。 博習堂で即戦力となる士官を 要請するため、従来のオランダ語の学習でなく、日本語の兵学教科書を自ら執 筆して使うなど、教育内容を改革する。 それまでの倫理でなく、戦い方に焦 点を当てる。 特に偵察を重視。 40科目を4か月で学べるようにした。 慶 應2(1866)年6月の第二次長州征討では、石見方面の兵力1千を率い、幕府 軍1万に対した。 益田から浜田まで、縦に長く布陣する幕府軍を、先頭から 個別に撃破した。

大村益次郎の上野戦争2016/10/04 06:31

 『知恵泉』大村益次郎の二回目、「上野を制圧せよ!幕末の天才軍師 大村益 次郎」、「組織のパフォーマンスを引き出すには?」 慶應4(1868)年3月勝 海舟と西郷隆盛の会談で、江戸開城が決まった。 しかし、それに不満な彰義 隊始め幕府方各藩の武士たちは、上野の山に結集、3千以上といわれた。 彰 義隊は江戸市中に跋扈し、新政府軍の兵士と衝突して、殺傷事件も起きる。 新 政府軍は司令官の西郷を更迭、新司令官を大村益次郎とし、大村は4月21日 に江戸城に到着した。 大村はまず、彰義隊に対して夜襲をかけるという作戦 を却下する。 その理由は(1)敵の拠点を絞り切れない、(2)火災の可能性、 (3)バラバラの新政府軍(中心は薩長だったが、互いに最悪の関係だった)。

 大村益次郎の知恵、その一「集中する時間を区切れ」。 まず「5月15日、 上野の山の賊徒を征伐する」という布告を出した。 敵を上野の山に集める。  相手に10日ほどの、自らを見つめる時間を与えた。 それで逃げ出す者も出 て、数は1千人足らずに減った。 一日だけなら、新政府軍も内部の喧嘩をや めて、協力するかということになる。 士気を高めた。 さらに、江戸城にあ った骨董品、美術品を売却して資金をつくり、アームストロング砲など新兵器 を配備した。 上野の山は、20メートルほどの台地だ。 作戦はまず、表門の 黒門口に突撃して、士気を一気にくじく。 背後からも突入して、挟み撃ちに する。 内部の彰義隊士が、行き場を失ったところで、不忍池の対岸からアー ムストロング砲を打ち込む。 三方向から連携攻撃された彰義隊士は、わざと 兵力を配備しなかった北東へ敗走するはずだという作戦だ。

 大村益次郎の知恵、その二「キーマンを見極めろ!」。 大村は作戦を一人で つくり、ただ一人、薩摩隊のトップ西郷隆盛だけに明かした。 黒門口に突撃 するのは、最強の薩摩の部隊だ、と。 情に厚い性格の西郷は、「薩摩の兵を皆 殺しにするおつもりか」と言い、大村は「その通り」。 席を外した西郷は、薩 摩を始め新政府軍の連中に言った「大村に、私を一番難しい所に出してくれと 申しておきました」。

 5月15日午前7時、薩摩隊が黒門口への攻撃を開始した。 激戦となったが、 昼過ぎに黒門口を突破、背後からは長州が攻撃した。 そして不忍池の対岸か ら、佐賀がアームストロング砲を打ち込んだ。 彰義隊は開いていた北東へ逃 げ、上野の戦争は、わずか一日で新政府軍の勝利に終わった。 7月、江戸は 「東京」に改められる。

 上野公園の西郷隆盛の銅像に近いところに、彰義隊の墓がある。 扉には○ に義の字が見える。 当初は逆賊ということでつくれず、小さな墓石が地中に 埋めてあったという。 黒門は、荒川区南千住(当初は三ノ輪)の円通寺に移 築されており、多数の弾痕が激戦を物語っていた。 この寺には彰義隊士の墓 もある。 上野の山に逆賊だからと散乱放置された彰義隊士の遺体を、仏磨和 尚が「死んだら官も賊もない」と供養していて、大村益次郎は「ねんごろに供 養すべし」と言ったという。

志ん八の「臆病源兵衛」2016/10/05 06:21

 9月30日は、第579回の落語研究会だった。 前回が8月4日だったので、 久し振りの感じがした。

「臆病源兵衛」      古今亭 志ん八

「高砂や」        柳家 三三

「茶の湯」        立川 生志

        仲入

「目黒の秋刀魚」     春風亭 一朝

「山崎屋」        柳家 さん喬

 志ん八の出囃子は、証誠寺の狸林、二度目の落語研究会だという。 今日、 志ん五の七回忌というか、偲ぶ会のパーティーがあった。 役者のようなこと もやっていたので寺田農(みのり)さんや、プロ野球にも顔が広く、山本浩二 さんが挨拶した。 山本浩二さんは献杯で、「広島カープ優勝おめでとう、乾杯」 とやって、盛り上がり、明るい会になった。

 電気が発達してから、闇を体験することが出来ない。 暑い時分の疲れが出 て、一杯飲んで夕方まで寝ていた八っつあんが、涼みがてらと兄ィの所に寄る。  一杯やっていた、お前もやんな。 いい酒で。 洗いも酢味噌でやれ。 肴ま でいただいて、すみませんね、兄ィ、いい着物で、薩摩上布ですか。 源兵衛 も同じことをいってたよ。 その源兵衛、暗闇を怖がって、暗くなると外に出 ない。 そのくせ助平で、吉原じゃなく、根津の地獄へよく出かけるらしい、 根津では「昼遊びの源兵衛」と呼ばれているとか。 ご趣向で、これから奴を ここに呼びましょう。 24,5の丸ぽっちゃで色白、一重瞼で目尻がスッと上が っている女が、お前を見初めた、兄ィの遠縁で、一度源兵衛と話がしたいと言 っていると。 台所に隠れていて、おどかし、目を回したところで、それを肴 に一杯飲みましょう。

 源兵衛、いるかい。 開けてくれ。 怖いから開けられない。 これこれし かじかだ。 行きます、でも私を一人にしないで…。 ヴァーッ、真っ暗だ。  引っ張るな、着物が破ける。

 兄ィ、連れて来ました。 怖い、障子が開けっ放しで、仏壇も開けっ放し。  一杯やれ。 源兵衛は、一杯飲んでは、ビクビク左右を見る。 女は? 使い に行ってる。 八五郎が、これから酒を買い足しに行くと言って、台所に隠れ る。 源兵衛、飲んでは、左右を見回す。 台所の一升徳利にまだ五合残って いる、お前見て来い、流しの下だ。

 台所では、八五郎が白い布をかぶって、出た。 源兵衛驚いて、一升徳利で 八五郎の頭をボカン。 大変だ、幽霊を殺しちゃった。 これは八の野郎だ、 お前が殺したんだから、どっかへ捨てて来い。 兄ィは、剃刀で元結を解いて ザンバラ髪にし、三角の紙に「殺」を三つ逆さまに書き、額におまんまっ粒で 貼り付けた。 薩摩上布を着せ、葛籠(つづら)に入れて、お前が殺したんだ から、捨てて来いと、源兵衛に背負わせる。

 不忍池。 仲之町あたりで飲んできた酔っ払いと、出っくわした源兵衛、葛 籠を放り出して逃げる。 おーい、忘れ物だぞ! あいつ泥棒だな。 何が入 っているんだろう。 八五郎は、気を失っていただけだった。 蓋を開けた。  出たーーッ! 酔っ払いは驚いて逃げて行く。

 ここは、どこだ。 (額の三角の紙を手にして…)俺、死んじゃったんだ。  この紙もつけとかなきゃ。 ここは、極楽か、地獄か。 大きな池だな、血の 池地獄だ。 蓮の葉に、花も咲いている、極楽か。 蓮の葉の上に乗って、成 仏しよう。 そこで、何をしておるか! 鬼だ。 根津で遊んで来た二人連れ が通る。 根津は地獄っていうけれど、極楽だったよ、地獄極楽は紙一重だな。

 明るくなって来た。 八五郎は、根津までやって来た。 太鼓、三味線が聞 こえる、きれいなお姐さんがいる。 ここは極楽でしょうか? 地獄の一丁目 だよ。 しなびたおっぱいのお婆さんが庖丁を手に、鶏の首をつかんで、羽根 をバサーーッとやっている。 鬼婆ァだ。 ここは地獄でしょうか。 なあに、 娘のおかげで極楽だよ。