福沢のワッフル〔昔、書いた福沢49〕2019/04/22 08:05

   福沢のワッフル<等々力短信 第557号 1991(平成3).2.15.>

木村摂津守喜毅(よしたけ)が、咸臨丸でアメリカから持ち帰った品物の中 に、ワッフルを焼く金型があった。 桂川家にも土産にしたので、桂川甫周の 書いた「ワーフルの方」なるものが残っている。(今泉みね『名ごりの夢』)

 「鶏卵百目、数十二三程、砂糖百目/麺粉(めんぷん)五十目或は七八十目/ 先づ砂糖をよくすり、次に鶏卵をわり入れ猶又よく摺り、後麺粉少しづつ入る」

 西洋菓子を作るのだという日には、殿様も奥方もたすきがけの大騒ぎ、時間 など誰もかまわないという、半分遊びののんきな仕事で、十回に一度位しかう まく焼けなかったものだそうだ。

  福沢諭吉もワッフルを焼いた、という記録を見つけて嬉しくなった。 『瘠 我慢の説』の付録、木村芥舟喜毅の福沢追悼文が素晴しいことは、前に書いた ことがある。 その中にワッフルの一件が出てくる。 福沢の親友に高橋順益 (じゅんえき)という医者がいた。 いつもふたりで木村の家を訪ねては、おた がいに面白いことを言い合って、周りの者を笑わせたりしていた。 木村夫人 がワッフルを焼いているのを見た福沢は、これはとても面白い、私も器械を借 りて行って、一つやってみたいという。 翌日木村の老僕が届けると、福沢お おいに喜んで、みずから麺粉と鶏卵を混ぜて焼き始めた。 そこへ高橋もやっ て来て見物していると、卵の量が多過ぎたのか、パチパチとはね出して、福沢 の着物はもちろん、高橋にも飛沫がかかった。 高橋がいつもの悪口を言いだ したので、福沢は黙って見ていろ、そのかわり鰻飯をおごるからと言ったので、 高橋はまんまと鰻のご馳走にありついたという。 このエピソードは、当時で も、うなぎが、かなりのご馳走であったことを伝えている。 高橋順益は惜し いことに、若死したらしい。

 高校時代に知り合い、今は岩手の豊かな自然の中で子育てをしているガール フレンドが、昨年暮、マドレーヌを焼いて送ってくれた。 手作りのお菓子に 込められた気持が嬉しかった。 年末年始の休みに(ちょうど、そんなものが 食べたい時期なのだ)おりにふれて、家内とお茶にした。 桂川や福沢の焼い たワッフルは、「カステラのようなもの」と、今泉みねが書いているところを みると、今のワッフル(クリームやジャムをはさんだ)より、マドレーヌに近 いものだったのではないかと思う。

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