東洋文庫オリエント・カフェで、咸臨丸のことなど2019/05/10 07:17

 昼食は、六義園近くの東洋文庫オリエント・カフェへ行った。 平凡社から 出ている東洋文庫の本は、今泉みね『名ごりの夢』やモースの『日本その日そ の日』で知っていたが、実は東洋文庫に行くのは初めてだった。 東洋文庫が 三菱の岩崎久彌によって設立されたことも知らなかった。 東洋学分野の日本 最古・最大の研究図書館である東洋文庫は、大正13(1924)年に設立されて いる。 オリエント・カフェを小岩井農場が運営しているのも、小野義眞(日 本鉄道会社副社長)、岩崎彌之助(三菱社社長)、井上勝(鉄道庁長官)の三人 の共同創始者の頭文字をとって「小岩井」と命名された農場を、後に岩崎久彌 (三菱第三代社長)が継承し、場主となった縁なのだという。

 昼食はビーフシチューだったが、デザートのアイスクリームがさすが小岩井 農場、美味しかった。 お隣になった旧知の市川伊三夫さんから、東洋文庫と 三菱の関係を教えて頂く。 『名ごりの夢』(東洋文庫)の今泉みねは、日本国 中蘭学医の総本山桂川家、桂川甫周国興の「おひい様」で、みねを生んで間も なく亡くなった母親が木村摂津守喜毅の姉という桂川と木村の親戚関係が、福 沢を咸臨丸に乗せることになった。 咸臨丸では、測量のために来ていて暴風 のため横浜港内で難船し帰国の便船を待っていたアメリカ海軍のブルック大尉 一行を乗せたことが、荒れ模様の太平洋での操船に大いに役立った。 そんな 話をしていると、市川さんが子母澤寛の『勝海舟』に、咸臨丸では塩飽の水夫 (かこ)が活躍したとあると、話してくれた。 子母澤寛の『勝海舟』は、若 い時に興味深く読んだが、それはすっかり忘れていた。

 帰ってから、土居良三さんの『咸臨丸海を渡る』(未来社)を見てみた。 「あ とがきにかえて」に、「ブルックの帆船船長としてのキャリヤーと統率力、(中 浜)万次郎の英語力とその船乗りとしての力量、暗夜でもマストに登り風を見 て舵をとることのできる水夫五人、この三つのどの一つを欠いても、あの時季 このコースをとった咸臨丸に、その成功は「覚束なかった」のである。」とあっ た。 この「水夫五人」は、本文149~150頁をみると、ブルックの部下のチ ャールス・スミス以下「熟練の水兵」だった。 ブルックの日記には「今朝日 本人が前檣のトップスルをたたんだ」とあり、(日本人)水夫たちも風の中で帆 をたためるまでに慣れて来ていることがわかる、とある。 最年少の乗組員、 斉藤留蔵の日記『亜行新書』によると、暴風雨の中で帆の上げ下ろしは「一切」 アメリカ人の助けを借り、甲板に出てアメリカ人に負けない働きをしたのは、 中浜万次郎、小野友五郎、浜口輿右衛門の三人だけだったという。

 塩飽の水夫のことである。 サンフランシスコに着いて、すぐ四人が病院に 入り、三人が亡くなった。 今は、サンマテオ・カウンティのコルマにある日 本人墓地に、水夫源之助、富蔵、火焚(かまたき)峯吉の墓があるのだそうだ。  その碑文が『咸臨丸海を渡る』にあった。 「日本海軍咸臨丸水夫 讃岐国塩飽 広島青木浦 源之助 二十五歳」、「日本海軍咸臨船之水夫 讃岐国塩泡佐柳島 冨 蔵墓」、「安政七歳 三月晦日 日本九州長崎篭町蒸気方峯吉」。

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