「和歌山・高野山・白浜を訪ねる」(2)〔昔、書いた福沢114-2〕2019/09/20 06:57

         和歌山と福沢諭吉・慶應義塾

 地中海の港町を再現したという和歌山マリーナシティのロイヤルパインズホ テルに入る。 夕食前、和歌山県立文書館長の立花秀浩氏から「紀州藩の教学 と福沢諭吉」という講話を伺う。 紀州藩は第五代徳川吉宗を始め歴代藩主が 教育熱心で、大藩の実力をもって広く人材を求め、抱えては、藩の子弟の教育 に当らせてきた。 幕末、緒方洪庵の適塾から池田良輔、福沢の一年後輩に あたる山口良蔵、塩路(崖(きし)、岸)嘉一郎(山口と塩路は姻戚)を召し抱 えたことから、紀州と福沢の関係が出来た。 塩路と崖が同一人物であること が、講話前の立花氏と西川俊作常務理事との会話から判明したことは、この旅 行の一収穫だった。 福沢が江戸で福沢塾を開くと、紀州から入塾する者があ いつぎ、特に慶応2(1866)年には小泉信吉(のぶきち)、松山棟庵、和田義郎 (与四郎)、小川駒橘(こまきつ)、草郷(そうごう)清四郎ら11名が入塾し た。 明治5年に三宅米吉、明治7年に鎌田栄吉が慶應義塾に入った。 有田 (ありだ)郡の醤油醸造業者で、抜擢され紀州藩の政治、教育の中枢を担った 浜口梧陵(儀兵衛)は、明治3年松山棟庵の協力を得て洋学校共立学舎を開校 する。 この時、福沢の招聘を図ったが、福沢は受けなかった。

 なお、醤油は有田に近い湯浅が発祥の地で、紀州の漁師が醤油で魚を食べる 風習を、いわし(金肥と呼ばれた肥料用)漁で出かけた千葉に伝えたのが、千 葉の醤油業の始まりで(浜口家は元禄期に銚子へ進出、現・ヤマサ醤油)、西川 さんの補足によれば浜口梧陵は後に醤油をアメリカに輸出し、世界一周の途中 ニューヨークで客死した。 醤油と、刺身や江戸前寿司の関係なども、興味深 いものがある。

 このように慶應の紀州出身者たちは、小泉信吉(塾長、その子信三も)、松山 棟庵(医学所校長)、和田義郎(幼稚舎の創立者)、鎌田栄吉(塾長)、草郷清四 郎(塾監)など、初期の慶應義塾で重要な役割を果した上、小川駒橘(湯川秀 樹の祖父)、三宅米吉(歴史学者、考古学の先駆)も加え、いろいろな分野で近 代日本の形成に貢献したのであった。 立花秀浩氏は、この和歌山と慶應義塾 の関係を、和歌山の人々にもっと知ってもらい、これからもさらに深めていき たいと、講話を締めくくった。 ホテルのディナーはイタリア料理で、質量と もに結構だった。

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