《築地明石町》モデルの孫 ― 2019/12/13 07:13
11日に東京国立近代美術館で「鏑木清方 幻の《築地明石町》特別公開} を観て来たので、一日「昔、書いた福沢」を休み、《築地明石町》のモデルの孫に ついて以前書いた「等々力短信」を出すことにする。 東京国立近代美術館は、 15日の会期末前で、ものすごい人だった。 2007年に行った鎌倉市鏑木清方 記念美術館は、閑散としていたのに…。
等々力短信 第1052号 2013(平成25)年10月25日
パリに生れ、パリに死す
ヨーコ・タニ、谷洋子という名の女優を、ご記憶だろうか。 グレアム・グ リーン原作の映画『静かなアメリカ人』(1958年)で助演、同年の『風は知ら ない』ではダーク・ボガードと共演、第二次大戦末期、日本人捕虜の尋問のた めに空軍中尉がインドのジャイプールで日本語を学び、教えてくれる美しい女 性と恋に落ちる、そのスズキ役。 『バレン』(1960年)ではアンソニー・ク インとイヌイットの夫婦を、『青い目の蝶々さん』(1962年)では日本に単身赴 任したイヴ・モンタンの夫が浮気したのではと疑い、ゲイシャに扮して探るシ ャーリー・マクレーンの妻に、化粧や着付けをする芸者を演じた。 フランス のテレビ番組や舞台にも出た。 日本映画では、1956年の久松静児監督、田中 澄江脚本『女囚と共に』に出ているが、その共演者がすごい。 田中絹代、原 節子、木暮実千代、香川京子、淡路恵子、久我美子、杉葉子、浪花千栄子。 前 田敦子と大島優子の区別はつかないのに、こちらは皆、顔が浮ぶのは、年を取 った証拠だろう。
森まゆみさんが、岩波の『図書』8、9月の上下で書いた「谷洋子のポルトレ」 を読み、谷洋子(1928(昭和3)年~1999(平成11)年)の本名が、猪谷洋子、 その母の名が妙子と知って、私にはピンと来る本があった。 富岡多惠子さん の『中勘助の恋』(創元社)である。 中勘助の“恋人”が、猪谷妙子だったか らだ。 妙子とその母江木万世(ませ)は、中勘助の人と文学を考える上で最 も重要な二人で、共に中勘助に「愛の告白」をしている。 万世は、中勘助の 一高以来の友人、新橋の江木写真館の息子、江木定男の妻で、鏑木清方の代表 作《築地明石町》(1971年切手になった)のモデルになったほどの美人だった。
中は若い友人夫妻の娘妙子を、幼い頃から大層可愛がり、江木定男が妙子13 歳の時に亡くなると、父親代りの役を務める。 膝の上の妙子にねだられてし たお話を、東京高商で経済学を専攻フランスに留学した猪谷善一と結婚し、パ リで洋子の母になった妙子に請われて、書き上げたのが『菩提樹の蔭』だった。
猪谷一家は1930年に帰国、洋子は母も出た東京女高師附属女学校(現お茶 の水女子大附属中学・高校)から津田塾大学に進み、英語を身につけ二番で出 た。 女学生の時、母妙子が死ぬ。 どうしても外国に出たくて1950年カソリ ックの縁で渡仏、パリ大学にも通った。 最初は画家を志し、なかなか帰国し ないので、父が仕送りを止め、レビューに出た。 「日本から持って行った着 物を重ねて着て、一枚ずつ脱いだらすごく受けたのよ」、異国で女一人、気風よ く生きた。 『天井桟敷の人々』のマルセル・カルネ監督に見出されて映画デ ビューする。 俳優と結婚して別れ、長い付き合いの恋人ロジェと幸せに暮し、 70歳で没、ブルターニュのお墓に一緒に入ったという。
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