福沢索引2006年4月のブログ[昔、書いた福沢230]2020/03/09 07:06

三田界隈吟行<小人閑居日記 2006.4.17.>
 慶應志木高同窓会志木会の俳句の会「枇杷の会」でご指導いただいている本
井英先生が3月末で志木高を退職され、同じく本井先生に師事している慶應女
子高の「小春会」、中等部の「心太会」の三校(会)合同で、本井英先生に感謝
する句会と懇親会があった。 三田界隈を吟行、中国飯店で昼食後、中等部の
会議室で、30人の大句会。 <春の潮自由の海へ船出かな><ごきごきとしご
いてみたき花穌枋(ずおう)><若き日は銀杏の芽吹き見てをらず>など、望外
の得点。

自然との共生を喜び合う<小人閑居日記 2006.4.18.>
 本井先生は楽観的で、俳句には豊かな将来がある、と言われる。 花鳥諷詠
は、自分も自然の一部である人間が、どう地球に住まわせてもらうか、花鳥の
名前と顔を憶え、自然と一緒にいることを楽しむとともに、共に生きてきたこ
とを喜び合うことだ。 俳句は、西洋流のオリジナリティーを出さねばならな
いのとは、違うのだ、と。
 懇親会は浜離宮脇埠頭からマルコ・ポーロ号に乗船、お台場から羽田まで行
って、京浜運河を帰って来る2時間のクルーズ、明るい内に出て、やがて日が
沈んだ。

「西を向く侍」「柘榴坂の仇討」<小人閑居日記 2006.4.25.>
 浅田次郎さんの『五郎次殿御始末』(中公文庫)に、「西を向く侍」という短
篇がある。 「たった5年目、明治5年」<等々力短信 第960号 2006.2.25.
>を小説にすると、こうなるのではないかといった作品だ。 新政府は、明治
5年11月9日突然、太陽暦を採用し、明治5年12月3日を、明治6(1873)
年1月1日とすると定めた改暦の詔書が発する。 題「西を向く侍」は、太陽
暦の「小の月」を表す「西向く士(さむらい)」。
 「柘榴(ざくろ)坂の仇討」は桜田門外の変の後日談。 あれから13年、
井伊掃部頭直弼の御駕籠回りの近習、志村金吾が、逃亡した水戸脱藩の佐橋十
兵衛が俥引になっているの知り、あの日のような雪の日、志村は新橋の駅頭で、
佐橋の俥に乗り、柘榴坂まで行く。 「左の屋敷は荒れておるが」「久留米の有
馬様でござんす。その先は豊前中津の奥平様で」。

柘榴坂界隈の今昔<小人閑居日記 2006.4.26.>
 柘榴坂というのは、品川駅から高輪方面に上がる坂。 ベアトの撮った、侍
が警戒している柘榴坂の写真が、新潮社とんぼの本『写真で見る江戸東京』に
ある。(異論が下の<小人閑居日記 2006.5.28.>にある。) 明治5年7月に
なって、奥平の殿様とその家族が上京し、三田の慶應義塾にしばらく住んだ後、
明治8年春頃、下屋敷のあった高輪の二本榎に移った。

柘榴坂の写真は、綱坂(?)<小人閑居日記 2006.5.28.>
 横浜開港資料館調査研究員、斉藤多喜夫さんの『幕末明治 横浜写真館物語』
(2004年・吉川弘文館)は、フェリーチェ・ベアトのこの有名な写真が「薩摩
屋敷」でなく、実は「三田綱坂」だと指摘。 右手の塀は肥前島原藩松平(深
溝)家中屋敷、一段上が伊予松山藩松平(久松)家中屋敷、左手の木立の中が
会津藩松平(保科)家下屋敷となる。 現在の慶應義塾大学の裏手にあたる場
所で、それぞれ右手が慶應義塾大学、イタリア大使館、左手が三井倶楽部とい
うことになる。

高校新聞仲間の死<小人閑居日記 2006.4.27.>
 まだ64歳だった高校時代の新聞仲間に死なれて、ショックを受けている。 
彼は日吉の高校で“ハイスクール・ニュース”という新聞を作っていた。 学
生時代から、私の書くものを評価してくれていた男だ。 読売新聞社に入って、
社会部で756号のホームラン記録までの王貞治選手に密着取材をし、シドニー
特派員、社会部次長を経て、論説委員になり、10年間、福祉・医療・年金など
社会保障を担当した。 大阪本社取締役編集局長をやり、亡くなるまでよみう
りランドの社長だった。 ああ、小谷直道君。 悲しいぞ。

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