無言館と絵画修復<等々力短信 第1134号 2020(令和2).8.15.> ― 2020/08/15 07:05
長崎原爆の日の9日、「日曜美術館」「無言館の扉 語り続ける戦没画学生」に心揺さぶられた。 司会の小野正嗣さん(作家、早大教授)が、長野県上田市東前山の丘を登り、無言館の扉を開ける。 ほとんど剥落した《飛行兵立像》に「アーッ」、資料の顔写真や22歳という年齢に「アーッ、辛い」と呟く。 この戦没画学生慰霊美術館は、窪島誠一郎さん(78)が夭折画家の絵を集めた「信濃デッサン館」を見た野見山暁治画伯(99)が、協力して生まれた。 1933(昭和8)年、野見山さんと一緒に東京美術学校に入学した仲間の多くは戦死、ご自身も満州に出征、病気になり療養のため帰国して死を免れ、戦後は画家として活躍、文化勲章も受賞した。 才能を持ちながら死んだ仲間たちの絵はどうなっているのか、大きな忘れ物をした想いをずっと抱えてきていた。 絵描きは、絵さえ残れば、死んでいない。 間に合うんだったら集めたい、何かに駆り立てられるように、二人は蒐集の旅に出る。 絵は屋根裏や押入から現れた。
1997(平成9)年5月2日開館。 画学生たちは、死を覚悟し、一番好きなものを描いた。 《祖母の像》蜂谷清、おぶってくれた袢纏、満州からレイテ島で戦死、22歳。 《和子の像》太田章、友禅職人の家、日本画で浴衣の妹、満州で戦病死、23歳。 《家族》伊澤洋、入隊前日、洋間で紅茶を飲む家族(理想)に学生服の自分を描き込む、貧しい農家で庭の欅を伐り学資に、在学中召集満州からニューギニアで戦死、26歳。
戦後75年、今も絵が持ち込まれる。 《自画像》他・原静雄、一人娘の昌子さん(79)、昭和18年10月16日付の見事な遺書、最後に「昌子ちゃんへ、オ父様は天皇陛下のお為に死ぬのですから、少しも悲しんではいけません。昌子が大人になって立派になるのをいつもお父様は見てゐてあげますよ。お父様は昌子が大好き さよなら」
全体で600点(資料を含め)、飾りきれないものは収蔵庫「時の庫(くら)」に、修復の待合室でもある。 絵画修復の先駆者山領まりさん(85)主宰の、武蔵野市のアトリエ山領で修復する。 修復中、大江正美《白い家》暗い絵の下から、シュールな《人物》が現れた。 酸素の管を鼻に入れた山領まりさんは1月の取材に、初め元に近づける努力をしたが、ものすごくわざとらしくなる、傷んで来るのは自然の法則、中途半端に介入するのは、絵の生命を奪う感じを受けた。 入口の《飛行兵立像》大貝彌太郎、激しい損傷そのものに、描かれた当初より力があるのかもと尊重、これ以上悪くしない処置をして未来に渡した。(その山領まりさん、7月26日に亡くなった。) 開館2年後、感想文ノートに「とうとう会いに来ました、安典さん」と。 《裸婦》日高安典の緊張真剣な顔のモデルだった。 昭和20年4月19日ルソン島で戦死、27歳。
コメント
_ 轟亭 ― 2020/08/15 07:15
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