秀吉の書状、信長からの養子には織田家を継がせない2020/08/31 07:13

 昨日の一般的に知られた「清須会議」の概要だが、あくまでも二次史料(系図、家譜、軍記物語など、後世になって編纂されたもの)によるもので、より史料的価値が高いとされる、同時代に作成された書状、日記などの一次史料によると、「清須会議」を織田家の後継者をめぐって争ったというのは、誤りであると今では指摘されていると、渡邊大門さんは書いている。 三法師が織田家の家督を継ぐことは既定路線であって、信雄と信孝が争ったのは、三法師が元服するまでどちらが名代になるかであった。 決着がつかなかったため、秀吉が主導権を握る織田家の宿老体制のもと、三法師を支えることになったのである、という。

その一次史料であるが、この『清須会議』を読むと、秀吉を始め、当時の武将が実に多くの書状を書き、公家や寺社が日記など多くの記録を残していたことがわかる。 たとえば、天正10年に比定される10月18日付の秀吉書状写(「金井文書」。「浅野家文書」にも写しがある)、秀吉が信孝の家臣の斎藤玄蕃允(げんばのじょう)・岡本良勝の二人宛に送ったもの。 「信孝様、信雄様のお二人が御名代を争われたとき、どちらを御名代に立てるべきか、宿老たちが清須で相談したところ、信忠様の子(三法師)を擁立し、宿老たちが守(も)り立てると定めました。信孝様、信雄様のお考えを尋ねたところ、「それでよい」との仰せだったので、四人の宿老はそのようにしたのです。そこで、御誓紙を証拠として、清須から岐阜へお供し、信孝様に三法師様を預けたのです。」 この内容は、奈良興福寺多聞院主・英俊の『多聞院日記』(直接見聞きしたというより伝聞情報が多い)の記述とも矛盾しない。

信長の息子には、信忠、信雄、信孝の下に、次(秀勝)がいたが、天正5年または6年に、秀吉が願い出て、養子に迎えていた。 秀吉は、上の書状で、「ご存じのとおり、次(秀勝)は15、6歳になる立派な武士で、織田家の主にすれば人は笑わないかもしれないが、私が養子にしたので、主にすることは人がたとえ言ったとしても、それはないことと諦めている」と述べている。 実子のなかった秀吉は、次を自身の後継者にと考えていたに違いない。

10月14日に、秀吉は信孝配下の岡本良勝ら二人に送った書状(「松花堂式部卿昭乗留書」)でも、信孝が秀吉に警戒感を抱えていたと思われるので、秀吉は次(秀勝)を織田家の家督にしないことを明言し、信孝の警戒感を解こうとした。(この記述のある106頁5行目には、「秀吉は信勝を織田家の家督にしない」とあったので、朝日新聞出版に「次(秀勝)」の誤りではないかと連絡したところ、書籍編集部の山田智子さんから、重版の折には修正するとの返事があった。) (最初、信勝は信雄の誤植かと思った。ちなみに、織田信秀の子で、信長のすぐ上の兄信行が信勝という名前を使ったことが一次史料にあるそうだ。) このことはほかの書状で何度も繰り返し書いているので、秀吉は相当気にしていたのだろう、という。

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