覚慶(足利義昭)の救出と上洛援助の働きかけ2020/09/08 07:14

 あらためて、立花京子さんの『信長と十字架』(集英社新書)をパラパラやっていたら、ちょうど再開大河ドラマ『麒麟がくる』の第22回「京都よりの使者」(脚本が池端俊作でなく前川洋一)に出て来た覚慶(足利義昭)のことが、詳しく書かれていた。 大河ドラマは、6日放送予定の第23回「義輝、夏の終わりに」が台風10号のために放送中止になったので、その後、どういう展開になるかわからないけれど…。

 永禄8(1565)年5月19日、室町幕府十三代将軍の足利義輝は、宿敵三好三人衆(三好日向守長逸(ながゆき)・岩成主税助友通・三好下野守政康)と松永久秀の軍勢に邸宅を囲まれ、必死の応戦むなしく自刃した。 室(奥方)はかろうじて逃げたが、母の慶寿院は、同時に殺害され、義輝末弟の鹿苑寺周暠(しゅうこう)も謀殺された。

 義輝の次弟で、奈良興福寺の一乗院門跡として覚慶を名乗っていた義秋(義昭)は、松永久秀の監視下で一乗院に幽閉状態におかれ、いつ殺害されるやも知れぬ危険な状況にあった。 そのとき、覚慶を一乗院から救出したのは、義輝の異母兄弟といわれている細川藤孝(後、幽斎)と、義輝の元奉公衆であった甲賀の土豪、和田伊賀守惟政(これまさ)であった。 細川家の家史である「細川家記」を基にして編纂された『綿考輯録』によれば、覚慶が、藤孝宛ての書状で病であることを述べたのを幸いに、藤孝は、学友であり医術の心得のある米田求政を一乗院におもむかせた。 覚慶に対面した求政は、頃合をはかり、番人に酒を飲ませて油断させ、覚慶を背負って塀を乗り越え、春日山で待ちうけていた藤孝と合流した。 藤孝は、惟政の案内で、覚慶を和田館に入れた。 このとき、大覚寺義俊(近衛稙家(たねいえ)の弟)や一色藤長も、覚慶のために積極的に行動した。 大覚寺義俊は、義輝・覚慶の母、慶寿院の兄弟であり、一色藤長は、義輝奉公衆である。 このように、義輝近親者が中心となって、覚慶救出が実現された。 実は、この他に、朝倉義景が、義俊と久秀に救出の相談をしていたという。

 この時期の政治情勢については、和田惟政の後裔の家に伝わる「和田家文書」から、さらに多くの情報が得られる。 まず、惟政が覚慶に脱出を誘い、後難を恐れてためらう覚慶を説得した。 覚慶が、細川藤孝に相談せよ、と告げたので、惟政は藤孝に連絡を取り、永禄8(1565)年6月10日(実際は7月28日)に、和田館にむかえ入れたという。

 8月5日には、覚慶は、母方の伯(叔)父である大覚寺義俊の副状とともに、上杉輝虎(謙信)に宛てて、友好関係を是非よろしく頼むという書状(「上杉家文書」)を送っている。 それを皮切りとして、藤孝・惟政・義俊は、覚慶の上洛援助を諸大名に働きかけた。 「和田家文書」で確認される大名だけでも、朝倉義景(越前)、畠山尚誠(なおのぶ・河内)、上杉輝虎(越後)、松平家康(徳川、三河)、織田信長(尾張)、六角承禎(じょうてい、近江)という面々に、惟政らは書状を出していた。

 覚慶は、これらのなかで上杉輝虎にもっとも期待していたが、輝虎は関東の北条氏との確執に関心を払う必要から、覚慶の命に応ぜられず、覚慶の期待は、徐々に信長に傾いていく。

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