信長の義昭獲得と、第十五代室町将軍の誕生2020/09/10 06:51

細川藤孝は、朝倉義景によくよく義昭帰洛の尽力を勧めた。 しかし、義景の嫡子阿若丸の急逝などがあり、延引していたので、義昭は悩んでいた。 藤孝は、義昭に「信長をお頼みなさるのがよい。信長にはかねて内通していました」と云い、藤孝と上野清信は、義昭の使者として岐阜に赴き、明智光秀の取次ぎにより、信長に謁した。 信長は「武臣の面目なり」と請け合い、まず当国に移座なさるようにとのことであったので、戻った藤孝は、この事を義景に諭した。 義昭は一乗谷を出て、近江との境まで朝倉氏、その後、浅井氏、明智光秀、信長の兵に次々と守護されて、岐阜の立教寺に入り、信長と会う。

義景と信長が、義昭争奪のために激しく戦っていたことは明らかである。 義昭をより強く必要としたのは、信長のほうであった。 義昭が慌しく朝倉氏の庇護から離れて、信長の元へ身を寄せた裏には、義昭獲得を焦った信長と、藤孝、光秀の間で、何らかの陰謀がたくまれたとみなければならない。 義昭は、出立の前、義景の忠義を賞し、向後、今までの恩に背いて、義景の身上を見放すことはないという書状を与えた。 しかし、この約束は、二年足らずの後に、見事に一片の反古となる。

信長は、永禄11(1568)年9月7日に、義昭を美濃の立教寺に残して、岐阜から上洛戦へと出陣し、またたく間に、六角氏を、その本城である観音寺城から追い出した。 9月27日には、京都九条の東寺に陣取り、三好勢を桂川以西まで掃討した。 そして9月晦日に義昭を摂津芥川城に迎え、10月14日には京都六条本圀寺(ほんこくじ)に入れて、義昭供奉の戦いに終止符を打った。 その4日後の10月18日、将軍宣下がなされ、ここに第十五代室町将軍足利義昭が誕生した。 義輝没以来、将軍位を賭けて争ってきた義昭の「当家再興」が、信長によってついに実現したのであった。

室町将軍は足利義輝が第十三代で、足利義昭が第十五代である。 私は全く知らなかったのだが、第十四代足利義栄(よしひで)が、永禄11(1568)年2月8日に将軍宣下を受けていた。 義栄は、義輝・義昭の父で第十二代将軍義晴の異母兄義維(よしつな)の嫡子で、三好長慶、三好三人衆、松永久秀にかつがれていた。 立花京子さんは、こう書いている。 「義昭の上洛と、将軍職就任の意味は、なによりもまず、同年の2月8日に義昭より一足はやく将軍宣下を受けていた足利義栄への勝利として認識されるべきであるが、そのことは、従来、ほとんど忘れられている。/その理由の一つに、義栄が、ちょうど義昭が上洛した9月末から10月上旬にかけての時期に病死したことが挙げられよう。正確な死亡日が不明なら、死去した場所も、摂津高槻の普門寺とも阿波ともいわれ、さだかではない。まさに短命、薄幸の将軍であった。」

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