少女の物語に『気』をもらって2020/10/24 07:10

 翌9月4日、高橋三千綱さんはT大学病院に行き、放射線科のまだ若いH医師に放射線治療を受けることを伝えた。 放射線治療は25日間休まず続けなくてはいけない、9月9日から開始、10月17日まで、毎日午後4時に奥さんの車で20分程で行き、照射時間は1分半、会計を済ますまで10分ほど、4時半すぎには自宅に戻った。 負担が少ないのに何故か疲れやすくなり、流動食だけの毎日で日が暮れた。 仕事は少しもはかどらなかったが、10月10日には熟女軍とゴルフをし、10月18日にはS社のゴルフコンペがあり、昼にミルクを飲んだだけで一日を乗りきった。 ただゴルフは惨憺たる有様で、同伴した池井戸潤氏まで巻き込んで大叩きになった。 病気のことは伝えていなかったが、異常な状態に気づき、体調を気遣ってくれた。 それでも最後に半沢直樹のドラマに黒枠の写真が似合う男がいると自ら売り込みをかけ、池井戸潤氏は泡を食っていた。

 それから最後の食道拡張手術となる11月13日までの27日間は、息をしているのか、目覚めているのか、分からないままぼんやり過ごしていた。 その間に近藤誠先生から手紙をいただいた。 あれからつらつら考えて、“バルーン拡張術”という選択肢もあるなと思った。 ただしうまく内腔が拡張しても、がんが再増殖して再び狭窄することが考えられ、ほぼ確実に拡張術を繰り返さなくてはならなくなり、患者さんにも医師にもかなりの手間を強いるので、内視鏡医の理解と協力が不可欠になる、と。 手紙を読んで、三千綱さんは涙をこぼした。 近藤先生が一対一で向き合ってくれた温情に心からうたれたのである。 だが、返信を書くのをためらっていた。 できるならやめた方がいいといっておられた放射線治療を受けてしまったことを伝えていなかったからだ。 しかも、“バルーン拡張術”を御大O先生の執刀で11月13日に受けることが、決まっていた。

 むろんそれには危険があった。 命を賭けての最後の手術となるだろう、と御大O先生にいわれていた。 手術前日には、元院長で外来担当のW先生から、奥さんともども「食道が破裂して大出血を起こし、即死する可能性もある」と宣告された。 宣告を受けた日の午後、選考委員を務めていた「長塚節文学賞」の中高生の部の作品を読んだ。 中学一年の女子が書いた「奇蹟」という掌編、小学六年のとき白血病で骨髄移植を受けたのだが、その入院生活で、四人のいろいろな病気の小学生が励まし合い、ときには笑って過ごした、その明るく生命力に溢れ、けなげに未来をみつめる姿に深い感動を覚えた。

 手術当日の朝、病室から雪をかむった富士山が見えた。 10時に奥さんとお姉さんが病室に現れた。 奥さんは臆したように俯いていた。 最後の手術、即死、といった医師の宣言に、胸を痛めているのは明らかだった。 少したつと看護師が車椅子を押してやってきた。 手術室にいく間、高橋三千綱さんは小学六年生の女子が抱いた「奇蹟」をもたらすすがすがしさに思いをはせた。

高橋三千綱さんの『図書』連載「帰ってきたガン患者」10月号は、2019年11月13日の、ここまでで終わっている。 それからほぼ1年、この後、どういう経過をたどっているのだろうか。

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