保守・中道・急進、井上馨・井上毅と福沢諭吉2020/10/27 07:03

 坂野潤治さんの『帝国と立憲 日中戦争はなぜ防げなかったのか』を、読んでいこう。 坂野さんは、これまでの著作で一貫して、「保守」と「急進」の二分法では戦前日本の政治史は理解できない、「保守」と「中道」と「急進」の三分法が必要であると主張してきた、という。 一人の政治家の政治観が二分法をとろうが二分法をとろうが、歴史の展開に大きな影響はないように思える。 しかし、井上馨の二分法が間違っていたとすれば、明治立憲制の命運に決定的な影響を与えたに違いない、とする。

 井上馨は、幕末・維新を通じての一大勢力であった長州藩、あるいは長州藩閥の中心人物の一人であり、1875(明治8)年の立憲政体樹立の天皇の詔勅における中心人物、1881(明治14)年10月政変の国会開設の詔勅のキーパースンだった。

 福沢諭吉と彼が率いる交詢社は、イギリス型の議院内閣制をめざす「中道リベラル」であり、いわゆる「保守」ではなかった。 福沢が1879(明治12)年8月に刊行した『民情一新』は、物分かりのいい「保守」と無茶な改革を要求しない「改進」とが、4、5年ごとに政権を交代するイギリスの政治を模範とするものだった。

 しかし、「保守」・「急進」の二分論の観点からすれば、このような福沢の主張は、ときに限りなく「保守」に近く見えるかもしれない。 急進的な民権運動家の植木枝盛が福沢諭吉を「官民調和」論者として激しく批判したことは、よく知られている。

 反対に、最保守の右大臣岩倉具視やそのブレーンであった太政官大書記官の井上毅(こわし)らが評価すれば、福沢諭吉と交詢社は限りなく民権派に近く見えたことだろう。 1881(明治14)年7月にその井上毅が参議の伊藤博文に送った手紙は、福沢とその交詢社こそ、全国の国会開設論者の司令塔であるとして、警告している。 運動は憲法研究に一変したが、それは福沢の私擬憲法(交詢社私擬憲法案)を根にするほかはない、交詢社は今日全国を牢絡し、政党を約束する最大の器械であり、その勢力は無形のうちに拡大し、その主唱者は十万の精兵を率いて無人の野を行くような勢いである、と。 井上毅によれば、1880年に全国的に盛り上がった国会開設請願運動は、1881年に入ると板垣退助の愛国社の手を離れ、福沢たち交詢社の影響下に置かれるようになった。 著書『明治デモクラシー』などで明らかにしたように、この井上毅の見方は、福沢諭吉や交詢社の過大評価である。 依然として国会開設運動の中心的な存在は板垣たちだった。

 しかし、ここでの問題は、井上毅ら藩閥政府(明治維新に中心的な役割を果たした薩摩・長州藩らの出身者により組織された政府)内の保守派が、福沢諭吉と交詢社を、板垣退助らよりも危険な存在と見ていた点にある。 その福沢諭吉に、(井上毅ではなく)井上馨が、政府の手による上からの国会開設の手助けを求めたのだ。

 全体として保守的であった藩閥政府内に右派と左派があったとすれば、井上毅は右派で井上馨は左派だった。 そして国会開設を唱えるグループの中では、福沢諭吉が右派で板垣退助は左派だった。 保守派の中の左派と急進派の中の右派とが相互に親近感を抱くのは政治の世界の常だろう。 井上馨は福沢を保守的に見すぎ、福沢諭吉は井上を開明的に見すぎたのだ。

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