日本近代史を「帝国」化と「立憲」化の関係で考える2020/10/29 07:15

 時間を少し、明治一桁に戻そう。 この本の題名は『帝国と立憲』である。 坂野潤治さんは、日本近代史を「帝国」化と「立憲」化の関係に絞って検討し、「立憲」化の盛んな時には、「帝国」化が抑えられていたことは確かだとする。 しかし、「帝国」化は、周期的に抑えられることはあっても、また段階的に進んでいった。

 1874(明治7)年の台湾出兵とそれにつづく日中(清)関係の緊迫化は、明治の初めにおける最大の対外危機だった。 参議、内務卿の大久保利通が北京で和平交渉をまとめて帰国した翌日(11月18日)、井上馨はこの年1月に政府に提出された「民撰議院設立建白書」の起草者の二人、古沢滋(旧土佐藩)、小室信夫(旧徳島藩)と会合、有名な「大阪会議」の下交渉をする。 「大阪会議」は、「帝国」を抑え込むことを明確に意識して「立憲」が唱えられた最初の事例であった。 1875(明治8)年2月11日の木戸孝允、板垣退助、大久保利通の会合が有名だが、「帝国」に対する「立憲」の反撃という観点からは、それに先立つ1月22日の憲法制定論者の木戸孝允と民撰議院論者の板垣退助の「大阪会議」の方を重視すべきだろう。

 井上馨は、下交渉の三日後12月1日の木戸孝允宛ての手紙で、今後は今回のような「朝鮮やその他と戦を好むようなことはしたくない」と「帝国」化の抑制を頼み、木戸孝允が岩倉使節団の一人として一年余りに及ぶ欧米視察中に構想を練ったドイツ流の憲法制定論と、古沢滋と小室信夫が同じ頃イギリスで研究してきた議会開設論との妥協点を見出すために、井上が木戸を、古沢らが板垣を大阪に連れ出して二人で会談させようと伝える。

 12月18日に井上は再度木戸に送った手紙で、板垣らのイギリス・モデルの「民撰議院」ではなく、それよりは政府権限の強いドイツ型を採用しながら、なにはともあれ議会は開設することで、両派を妥協させようという。 この議会開設論と、今後再び「朝鮮やその他と戦を好むようなことはしたくない」という一文を結びつけて考えれば、議会の開設(「立憲」)と日中・日朝戦争(「帝国」)の回避とが一つのセットになっていたことは、明らかだろう。 それは木戸から大久保利通へ伝わる。

 1875(明治8)年2月11日に、一般に「大阪会議」として知られる大久保、木戸、板垣の三者会談が行われ、その結果を明治政府の正式決定まで煮つめたものが、坂野潤治さんが明治立憲制の発足として重視する1875(明治8)年4月14日の天皇の詔勅(立憲政体樹立の詔勅)である。

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