福沢諭吉の「朝鮮」「中国」評価2020/10/31 07:16

 つづいて坂野潤治さんの『帝国と立憲』で、福沢諭吉と朝鮮の問題を、読んでみたい。 1874(明治7)年の台湾出兵の後、清朝中国は日本を意識しての陸海軍の拡充と近代化に努めた。 日本の軍事当局がそのことに気がついたのは、1880(明治13)年末のことだった。 参謀本部長山県有朋は、天皇に奉呈した調査報告書「隣邦兵備略」の上奏文で、中国の脅威と、日本の「富国」第一主義(大久保利通内務卿の下で進められてきた殖産興業)から「強兵」第一主義への転換の必要を詳述した。

 その頃、外務省は日朝関係の緊密化を計っていて、1876(明治9)年の日朝修好条規(江華島条約)で定められた元山津、仁川の開港を、軍事的圧力を用いてでも実現しようとした。 朝鮮では、国の実権を握る保守派が中国に依存しているのに対し、日本と結んで国内の改革を行おうとする勢力が台頭してきた。 日本政府が親日的な改革派の援助を通して日朝関係の改善を図れば、保守派は中国との関係を密にし、日朝関係は日中関係に影響する、その中国は軍事的な近代化に成功していた、という状況だった。

 小見出し「福沢諭吉の奇妙な「アジア主義」――中国の過小評価」の部分。 明治政府や言論界が山県有朋のような冷徹な中国認識を持っていれば、朝鮮国内の親日派の台頭に安易に依存することなく、対中軍拡に努めただろう。 しかし、欧米列強の外圧だけを念頭に置いてきた日本の指導者の中には、中国を過小評価する者も少なくなかった。 欧米文明吸収の先達だった福沢諭吉も、その一人だ。

 朝鮮の親日改革派を中心に約60人の視察団が来日したすぐ後の1881(明治14)年9月に刊行された『時事小言』で、福沢は中国全体が日本のように急速に近代化することはありえないとした。 訪日使節団中の二人の朝鮮指導者が慶應義塾に入塾したことを、アメリカ留学中の小泉信吉に報告し、彼らの来日を幕末の自分の渡米渡欧に、彼らが語る朝鮮の実情をペリー来航時の日本に重ね合わせた。 それぞれ約20年前、約30年前のことだった。 朝鮮の若き指導者たちが、日本に学んで同国の近代化を計りたいと言ってきたのだ。 福沢が中国に敵しても朝鮮の近代化を助けたいと思ったとしても、不思議ではない。 日本の外務省、特に朝鮮駐在の外交官たちも、同じ思いで活動していた。

 福沢は『時事小言』で、日本には欧米列強のアジア進出から中国と朝鮮を守る責任があると唱えた。 日本の武力をもってこの二国を応援するのは、単に彼らのためではなく、わが国のためにも必要なのだ。 武をもって保護し、文をもって誘導し、すみやかに日本の例にならって近時の文明に入らせなければならない、と。 坂野潤治さんは、これは福沢の筆の走りすぎ、明らかな勇み足で、福沢が日本の力で「中国」まで保護したり改革したりできるとまでは思っていたはずはなく、この一文は「朝鮮」だけを念頭に置いて書かれたものだろう、としている。

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