「真相!本能寺の変 細川藤孝 戦国生き残り戦略」2021/02/02 07:06

 NHKBSプレミアム『英雄たちの選択』「真相!本能寺の変 細川藤孝 戦国生き残り戦略」(1月20日放送)が面白かった。 細川家は記録を大切にした家で、永青文庫には6万点の文書が残されている。 稲葉継陽(つぐはる)熊本大学教授・永青文庫研究センター長は、細川藤孝(幽斎)は文武両道の人だった、と。(大河ドラマ『麒麟がくる』では眞島秀和が演じた。) 母方の清原家は天皇の教育係。 藤孝は連歌をよくし、情報収集力に長け、将軍家の交渉人だった。

 永禄8(1565)年足利義輝が殺された時、足利義昭を一乗院から救出した藤孝は、信長の信頼を得た。 藤孝は、光秀とも親交があった。 永禄11(1568)年足利義昭が朝倉義景のもとを去って織田信長を頼った際に、藤孝は光秀とともに、その仲介工作をし、信長は義昭を擁して上洛、義昭は将軍となる。 しかし義昭は次第に信長と不和になり、天正元(1573)年信長に対して挙兵する。 藤孝は義昭に従わず、信長に京都の情報を流していた。 義昭は追放され、室町幕府は瓦解、藤孝は、既に信長の配下になっていた光秀と共に、信長に仕える。 こうした細川藤孝を、作家の桐野作人は「不倒翁」、井上章一国際日本文化研究センター教授は「家を潰さない、よくできた養子、細川家中興の祖」、磯田道史国際日本文化研究センター准教授は「目利き力、外交の嗅覚、早耳。都の武士で、義昭の地方には付いて行かなかった」という。

 そこで、本能寺の変である。 天正3(1575)年から4年間、光秀と藤孝は、丹波・丹後攻略にかかる。 その間、信長の勧めで、光秀の娘たま(後のガラシャ)が、藤孝の嫡男忠興と結婚する。 なぜ、光秀は本能寺の変を起こしたか。 2014年、石谷家文書に光秀の長宗我部元親への手紙が発見された。 光秀はずっと元親と交渉していて、元親は信長に従おうとする形跡を見せていた。 しかし、光秀の苦心も空しく、本能寺の変の十日前、信長は四国攻略の為に大軍勢を摂津に集結させていた。 光秀の面目は丸つぶれだった。(昨日見た、「四国説」)

 細川藤孝は、天正10(1582)年6月2日、本能寺の変の数時間後、その情報を丹後宮津城で聞く。 すぐに剃髪して、信長への弔意を示す。 6月9日、光秀は藤孝への二度目の手紙(最初の手紙は見つかっていない)で、協力(入魂)を要請、摂津と若狭を与える、息子や忠興の世代に政権を譲る行動で私利私欲ではない、五十日から百日で畿内は平定できる、と伝えた。 足利義昭と連絡した形跡もある。

 だが細川藤孝は、宮津城を動かなかった。 京都で、情報を収集させ、光秀の娘で忠興の妻たまを山奥に隠棲させた。 6月13日、明智光秀死去。 7月15日、藤孝は本能寺の焼け跡で信長追悼連歌会を興行する。

 秀吉宛の信長の手紙が、細川家に残っている。 稲葉継陽さんは、秀吉から藤孝に転送されたものと推定、両者の軍事的連携は天正8年、9年から進んでいたとする。 秀吉は、宮津城を動かなかった藤孝の動きを高く評価し、血判起請文を送っている。 日和見したのは筒井順慶も同じだったが、藤孝への評価は違った。 井上章一さんは、剃髪し幽斎を名乗り、信長追善の連歌興行をした「文化の力」、磯田道史さんは「ローリスク、中リターン」と。