西欧で理解した議会像、相互抑制と均衡2021/03/07 07:46

 松沢弘陽著『福澤諭吉の思想的格闘』、第II部「国民国家形成の構想」第四章は「公議輿論と討論のあいだ―福澤諭吉の初期議会政観―」である。 その第一節「公議政体対「社中」・討論」。 福澤諭吉は、幕末から明治初年にかけての、公議輿論・公議政体のさまざまな政治的動向に大きな影響を与えながら、ついにそのような動きには自ら参画することはなかった。 彼は、この間に、議会政を機能させる条件としての国民多数の政治文化の改革についての思索を深め、自ら同志を結集して「演説」と「衆議」という形でのその「稽古」を始めた。 またこの時期を通して福澤は、彼の議会政の理論の原型を発展させ、同時代の日本でおそらく最も深くまた独創的な議会政構想をつくっていた。

 福澤が文久の遣欧使節ではじめて議会を見聞した時には、全て理解をこえる制度だったが、『西洋事情』にいたると他には見られない正確な議会像となり、各国「議事院」のうちの一つ―下院―は、身分門地にかかわらず選挙で「名代人」を選び、国法を評議する会議体として理解されるにいたった。 『英国議事院談』(明治2(1869)年)では、ブラックストンの『英法釈義』から、英国議会の混合政体および相互抑制と均衡という原理を的確に読みとり、「衆庶会議」と「貴族会議」は、本来的に君主の“強い執行権”を“前提”とし、それが方向を誤まったり圧制に転ずるのを「抑制」する機能を期待されていた。 この「抑制」の原理はやがて「平均」というキーワードに結晶し、福澤の政治社会論のかなめにまでなるのである。

 福澤は『西洋事情』ですでに、この「抑制」を、政治社会の構成原理として、議会における君主・貴族院・庶民院の「鼎立」「抑制」という範囲にとどまらぬ、古い伝統に根ざした、“全社会にわたる”ことがらとしてとらえられていた。 ヨーロッパ諸国の政治、軍事、産業、学芸、社会福祉等を実態調査した際、それらの技術水準やサービスに驚くだけでなく、早くもそれが誰によって、いかに運営されているかに注目していた。 福澤が発見したのは、国民社会の公共的なことがらが、学芸や産業から軍事にいたるまで市民の自治的自発的結社―「社中」によって担われているという事実だった。 『西洋事情』外編巻之二ではチェンバース社の『政治経済学』を引き、「市民の会同」が自己立法と自治によって独立して、政府の権力を「抑制」する姿をよくとらえている。

 統治機構としての議会と政治社会全体との双方に通じるこのような理解は、福澤の国民国家形成の構想の基礎となった。 福澤はこのように多元的な均衡抑制原理にもとづく西洋社会の姿を日本に初めて紹介したばかりでなく、『西洋事情』外編を脱稿する頃には、自ら「相与に謀って」、「社中」としての慶應義塾創設という実践にふみ切った。 加藤弘之、津田眞道、神田孝平、西周らが開成所や幕閣の公議所で、幕府追討軍に徹底抗戦を唱えて、体をなさず明確な結論を出せない激論を繰り返していた時、福澤は、「社中」同志の討論を重ねて、世情混乱の中に新しいタイプの塾を一歩々々築き始めていたのである。

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