玉泉寺のハリス顕彰碑、タウンゼンドとタウンゼント2021/04/03 06:59

大河ドラマ『青天を衝け』第6回「栄一、胸騒ぎ」の「紀行」で、下田の玉泉寺のハリスの顕彰碑を渋沢栄一が建てたこと、本堂の銅板葺きの屋根を寄進したことをやっていた。 ハリスは、12月28日の<小人閑居日記>に「永井荷風と広尾光林寺ヒュースケンの墓」、29日に「ヒュースケンの暗殺、光林寺での葬儀」に書いた通訳ヒュースケンを伴って、安政3(1856)年に下田玉泉寺に着任、3年間下田や江戸で交渉を重ね、安政5(1858)年横浜での日米修好通商条約の調印に至った。 渋沢栄一が、日米というか日本の通商を開いたハリスの功績を称えて、ハリスの顕彰碑建立に尽力したことを、ぜんぜん知らなかった。 昭和2(1927)年10月1日、除幕式に参列した87歳の渋沢栄一は、「封建制専制から立憲国に、また資源乏しい国ながら産業・貿易も盛んになったのは、ハリスのお陰」と演説したそうだ。

 それをハリスの顕彰碑で検索した、渋沢栄一記念財団のホームページでは、「タウンゼンド・ハリス記念碑建設」(渋沢栄一伝記資料)となっていた。 ずっとタウンゼント・ハリスだと思っていたのだが、「タウンゼンド・ハリス」(Townsend Harris)だった。 だが『青天を衝け』は「ハルリス」「タウンゼント・ハリス」であり、ウィキペディアも「タウンゼント・ハリス」である。 そういえば昔、エリザベス女王の妹のマーガレット王女の恋人が、タウンゼント大佐という名前だった。 マーガレット王女は10代の終わりから20代の初めに、父のジョージ6世の侍従武官だったピーター・タウンゼント大佐を恋した。 しかし、16歳年上で、離婚歴のある大佐との結婚を、英国国教会が許さず、英国国教会の首長であるエリザベス女王も立場上認めることができなかった。 で、ずっと当時の報道の通り、タウンゼント大佐だと思ってきたのだが、タウンゼンド(Townsend)だったらしい。

 最近の百科事典を見ると、タウンゼントはなく、みなタウンゼンドになっている。 イギリスの児童文学評論家・作家ジョン・タウンゼンド、物理学者サー・ジョン・エドワード・タウンゼンド、詩人オーレリアン・タウンゼンド、政治家チャールス・タウンゼンド父子、アメリカの医師フランシス・タウンゼンド。 いったい百科事典がTownsendのDを、「ト」でなく「ド」と表記するようになったのは、いつ頃からだったのだろうか。

コメント

コメントをどうぞ

※メールアドレスとURLの入力は必須ではありません。 入力されたメールアドレスは記事に反映されず、ブログの管理者のみが参照できます。

※なお、送られたコメントはブログの管理者が確認するまで公開されません。

※投稿には管理者が設定した質問に答える必要があります。

名前:
メールアドレス:
URL:
次の質問に答えてください:
「等々力」を漢字一字で書いて下さい?

コメント:

トラックバック