『青天を衝け』、開国勅許と将軍継嗣問題2021/04/13 07:07

 『青天を衝け』第6回「栄一、胸騒ぎ」で、「こんばんは」と出て来た徳川家康(北大路欣也)は、61歳の時の子、11男の頼房がやんちゃで、7歳の時、常陸国水戸に居城を置き、25万石を与えた、と水戸徳川家誕生の話をした。 皇室を大切にする家で、毎年領地で獲れる一番ジャケを皇室に献上した、その息子が光圀で「主君は京の天子様で、徳川一門挙って敬うべし」と言った。 「孝を東照公(つまり自分)に、忠を天祖に尽くす」と、尊王の思想、水戸学の本を書いて全国に広めたのが藤田東湖(渡辺いっけい)、徳川斉昭(竹中直人)に強い影響を与えたが、安政2(1855)年10月の江戸大地震で死んでしまった。

 『青天を衝け』、その第6回、第7回「青天の栄一」、第8回「栄一の祝言」あたりの、政治情勢である。 老中阿部正弘(大谷亮平)はペリーの開国要求に際し、諸大名・幕臣などに諮問(岡部藩に幽閉され、釈放された高島秋帆は開国に賛成)、安政元(1854)年3月、やむなく日米和親条約を締結、安政3(1856)年8月にはアメリカの総領事ハリスが下田に着任、阿部は諸外国と正式に国交を開き通商も始める開国へ導く方針に転換した。

 安政4年正月、新年を祝う尊皇の水戸徳川家では、斉昭の正室、皇室出身の吉子(登美宮・原日出子)が上座で、斉昭以下がお酒を賜わる。 義公と呼ばれた第二代光圀は、「徳川宗家と争うとも、天子様には弓引くな」と言ったという。 幕府内で尊皇攘夷を主張する斉昭は、朝廷に幕府の開国の方針を伝えてしまう。 慶喜(草彅剛)は父斉昭に引退を勧めるが、斉昭は「慶喜が将軍になるなら」と突っぱねる。

 もろもろの対応に苦労した老中阿部正弘が亡くなり、幕府は大混乱となる。13代将軍家定は病弱で、次期将軍に井伊直弼(岸谷五朗)ら溜間詰諸侯は家格が上の紀州の慶福を推し、斉昭や松平慶永らは、英明な資質の慶喜を推す。 家定は、井伊直弼(岸谷五朗)を大老に任命する。 大老になった井伊は「日米修好通商条約」を結ぶが、調印は違勅だと大問題に発展、井伊に意見した斉昭や松平慶永、慶喜には処分が下され、安政の大獄の苛烈な弾圧が始まる。

 『青天を衝け』では、斉昭だけが朝廷に幕府の開国の方針を伝えてしまうと描かれたけれど、阿部正弘の後の老中堀田正睦らが条約調印の勅許を得に上京するが、予想外の手強い反撃にあって、空しく江戸に帰着し、その三日後、井伊直弼は電撃的な素早さで大老の職に就く。 井伊は、持ち前の強気で押し切って、勅許を待たず条約に調印、かえす刀で、慶福を将軍継嗣にする旨、宣言した。