ハリスの駐在、堀田正睦、井伊直弼の登場2021/04/15 07:00

 アメリカの初代駐日総領事(コンシュル consul)となったタウンゼント(『開国・維新』は「ト」だった)・ハリス(1804~78)は、安政3(1856)年7月21日、軍艦サン・ジャンシント号で下田に到着した。 下田奉行の井上清直(川路聖謨の弟)は幕府に上申して、ハリスの駐在が認められ、下田郊外の柿崎にある玉泉寺が宿舎となり、8月5日星条旗がひるがえった。 ハリスは、井上清直に通商の自由と、通貨交換比率の取り決めを要求し、江戸における「日米修好通商条約」の締結をもくろんで、幕府に江戸への出府許可を要請する。 この過程でハリスは、外国と条約を結んでいる国家は外国使節に対する応接も「各国共通の礼式」を用いるべきで、自分がもっている大統領の国書は江戸にいる国王(将軍)がみずから受け取るべきだと、主張した。 この「各国共通の礼式」が国際法(万国公法)にもとづく規定をさしていることは、この時点では、まだ明らかになっていなかった。

 ハリスの江戸出府が実現したのは、彼の粘り強い交渉の結果であると同時に、「蘭癖」の堀田正睦が前年の安政2(1855)年10月から老中首座になっていたからである。 堀田と阿部正弘の連立政権は、堀田がもっぱら外交問題を担当し、そのもとに外国貿易取調掛を置くことによって、すでに外国との貿易の開始にカジを切っていた。 この取調掛に任命されたのは、それまで対外交渉に当たっていた開明派の能吏、川路聖謨、水野忠徳、岩瀬忠震らである。

 この堀田正睦の起用については、それまでの幕政が阿部正弘・徳川斉昭と外様大名ラインによってリードされてきたことに対する、名門の譜代大名ラインからの反発が強く働いていた。 その中心人物が譜代大名のうちでも名門意識の強い、溜間詰の彦根藩(35万石)主の井伊直弼だった。 井伊は、幕府保守派勢力の筆頭ともいえる人物で、外国との戦いをさけるいわば「事なかれ主義」から、開国や貿易をやむをえないと考える立場に立っていた。