開戦を決定した9人、内7人は軍人2021/04/29 07:16

 保阪正康さんは、太平洋戦争に至るプロセスで知っておかなければならないことが二つある、と考える。 (1)昭和天皇は戦争をどう捉えていたか。 (2)真に戦争政策を決定したのは誰だったか。

 天皇は「皇統を守る」のが目的であり、その手段として宮中での祈りや祭祀があるはずだった。 この手段の中に、軍事指導者たちは「戦争」を持ち込んだのである。 つまり軍事指導者たちは「皇統を守るためには戦争しかない。なぜなら石油がない以上、この国は自存自衛していけないのだから」と、天皇に詰め寄ったのである。

 天皇が明治天皇の御製を口にしたのは、日米関係を正すのは外交交渉しかない、私は戦争は嫌だという意思表示をしたことになる。 つまり昭和天皇は手段に戦争を選ばないと明言しているのである。 このことがわかると、昭和という時代の天皇と戦争の関わりを新たな目で見ることができる。

 前日の5日に近衛首相と軍事指導者たちが天皇から、外交を第一にせよと言われたのならば、戦争を軸にしている項目の順位を変えるのが筋なのに、彼らは無視している。 さらに明治天皇は日清、日露の戦争の時は当初は強く反対していた。 そういう事実を勘案していくと、軍事指導者には抑制した姿勢が必要だった。 ところが彼らは天皇に二枚舌を使いながら、責任だけは天皇に押し付けたのである。 天皇制ファシズムのからくりである、と保阪正康さんは書く。

 9月3日の連絡会議で外交交渉に期限を決め、戦争への歩みを一歩進めた。 天皇の意思を無視して、6日の御前会議では追認している。 この御前会議は日本の国策として戦争を選択したという意味を持つ。 そして11月29日の連絡会議で開戦を決め、12月1日の御前会議で正式に承認されるというのが歴史上の流れであった。 近衛首相は、ルーズベルト大統領との首脳会談を求めて、野村吉三郎駐米大使にハル国務長官と交渉させていたが、アメリカ側は日本に中国からの撤兵を迫り、東條陸相はそれを陸軍の生命線だと譲らなかった。 近衛は10月16日に辞意を固め、木戸幸一内大臣は東條を使って対米戦の強硬派を抑えつけるという荒療治で重臣たちを説得し、10月18日に東條英機内閣が誕生した。

 11月29日の連絡会議の出席者の責任は重い、さらに言えば9月3日の連絡会議にも出席していた者は責任の重さが倍加する。

 11月29日の出席者は、政府側から次の5人、東條英機(首相、陸相二役兼務)、嶋田繁太郎(海相)、東郷茂徳(外相)、賀屋興宣(蔵相)、鈴木貞一(企画院総裁、元陸軍中将)。 大本営、つまり軍事指導部からは次の4人、杉山元(参謀総長)、永野修身(軍令部総長)、田辺盛武(参謀次長)、伊藤整一(軍令部次長)。 この他に陸軍省、海軍省の軍務局長が幹事役として出席しているが、発言権はない。 わずか9人で戦争が決まったということになる。

 このうち9月の連絡会議にも出席していたのは、東條、鈴木、杉山、永野の4人である。 さらに開戦決定の9人はいずれも官僚、しかも7人は軍官僚である。 文官の東郷外相に至っては開戦日も知らされておらず、12月8日の開戦まで偽装外交をしろと詰め寄られていた。 まさに軍人による、軍人のための戦争であったのだ、と保阪正康さんは書いている。

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