ワーグマンが現場で描いた大事件2021/05/12 07:02

 清水勲さんの編著『ワーグマン日本素描集』(岩波文庫)から、見てみよう。 チャールズ・ワーグマン(1832-91)は、『イラストレーテッド・ロンドン・ニューズ』の特派通信員として来日し、最初の大きな仕事は、イギリスの駐日総領事・初代公使オールコックの著書『大君の都』(上下二巻)に挿入する12葉の石版画の制作だった。 村の娘・茶屋の娘・御高祖頭巾の女・医者の肖像、長崎から江戸への途中、九州の大村や小田で外国人一行を見に来た群集などが描かれている。 『イラストレーテッド・ロンドン・ニューズ』には、来日した文久元(1861)年から明治20(1887)年まで画信を送り続けた。 とくに幕末から明治11(1878)年までに寄稿が集中している。 東禅寺浪士乱入事件の詳報、生麦事件の賠償金支払い模様、下関海峡での戦闘、横浜の大火、大坂城での各国公使と将軍徳川慶喜との会見、横浜から西南戦争へ出征する兵士たち、など大事件の模様を画と文章で世界に紹介した。 また、日本の風景、風俗・習慣や、政府の音頭で急速に進める洋風化、近代化の動きも伝えている。 ぜひ実際の絵を見てもらいたいのだが、二三、紹介してみる。

 《東禅寺浪士乱入の図》 1861年7月5日(文久元年5月28日)夜、江戸高輪の東禅寺(イギリス公使館)に水戸藩浪士が乱入した事件を描いている。 ワーグマンはこの前日、公使オールコック一行と長崎から陸路江戸に到着したばかりだった。 ワーグマンは床下に隠れて、事件を目撃した。 わずかに星の見える暗闇の中、提灯を掲げる警固の武士たちと、乱入の浪士が刀を振りかざして、斬り合っている。 前面に、鉢巻をした浪士の、低く構えた白い足と手が印象的で、バックに寺の建物らしいものが薄く描かれている。

 《二英人殺害事件犯人のさらし首》 1864(元治元)年10月22日、鎌倉八幡宮で起こったイギリス人ボールドウィン少佐、バード中尉殺害事件の犯人、清水清次(青森の浪人)のさらし首が、竹矢来の中の台の上に置かれ、罪状を掲げる役人、見物する人々が描かれている。 丁髷の男、髪を結った女、鉢巻をした町人、外国人、さらに負ぶわれた赤ん坊の顔まである。

 《大坂で大君に公式会見するハリー・パークス卿》 1867(慶応3)年5月2日、大坂城で行なわれた将軍徳川慶喜と英・仏・蘭三国代表との会見の図。 ワーグマンもこの場に参加、将軍以下幕府側は烏帽子、大紋、長袴姿である。 この日、将軍は翌1868年1月からの兵庫開港を約束した。 この会見を契機に薩摩藩は武力討幕へと向かい、戊辰戦争、明治維新へと発展する。