『おちょやん』と上方喜劇の歴史2021/05/18 06:52

 上方喜劇の歴史については、ほとんど知らなかった。 喜劇王・須賀廼家(すがのや)万太郎(板尾創路)として登場した曽我廼家(そがのや)五郎(1877~1948)が明治37(1904)年曽我廼家十郎とともに劇団曽我廼家を創立、大阪を本拠に大阪俄(にわか)と歌舞伎を演技の基盤として、笑わせる芝居を日本で初めて喜劇と銘打って上演し、一堺漁人(いっかいぎょじん)の筆名で多数の喜劇脚本を書いた。 当時の五郎人気は全国区で、東京でも定期的に公演、昭和7(1932)年には来日したチャップリンと新橋演舞場の楽屋で握手をかわしたという。

 昭和3(1928)年、五郎劇に対抗するため松竹が立ち上げたのが二代目渋谷天外と曽我廼家十吾(とうご)の松竹家庭劇で、浪花千栄子も加わった。 曽我廼家十吾は、朝ドラの須賀廼家千之助(星田英利)だろう。 今に続く松竹新喜劇は、昭和23(1948)年曽我廼家五郎が亡くなった直後に、天外、十吾を座長に結成された。 浪花千栄子が去った後、藤山寛美(朝ドラの松島寛治(前田旺志郎…「まえだまえだ」の弟の方、慶應義塾大学在学中だそうだ))がスターとなり、上方喜劇の中心的存在になる。 芝居より演芸に寄った吉本新喜劇の創立は、ずっと後、昭和34(1959)年のことだという。 朝ドラで大山鶴蔵社長(中村鴈治郎)の鶴亀株式会社の、番頭熊田を演じた西川忠志は、吉本興業所属、ご存知のように西川きよし・ヘレン夫妻の長男だ。