浪花千栄子、波乱の人生2021/05/19 07:19

 浪花千栄子の「家中みんなで」という、大正製薬の「オロナイン軟膏」のホーロー看板が、商店街の羽目板に貼ってあるだけで、昭和の感じが出る。 浪花千栄子の本名が、南口(なんこう)キクノという縁で、「軟膏」のCMに出たのだそうだ。 浪花千栄子は明治40(1907)年11月に、現大阪府富田林市に生まれた。 家業は鶏の行商で貧しく、4歳で母親が亡くなり、弟の世話に追われ、小学校に通ったのは2か月だけ、父親の再婚相手に疎んじられる、というのは朝ドラ『おちょやん』の通りだ。

 大正4(1915)年、7歳で大阪道頓堀の仕出し弁当屋に女中奉公、「おちょやん=小さい女中さん」として、主人の母のお家はんにしごかれる。 睡眠時間は4時間、読み書きは便所で独学、舞台を覗き見し、芝居に魅せられる。 だが、父の差し金で地元に戻り、稼いだ金は父の懐に。 地元での二つ目(都合三つ目)の奉公先で、やっと人間らしい生活をし、年季明けを前に、奥さんに父の束縛から逃げるように言われる。

 大正13(1924)年、16歳、京都のカフェー・オリエンタルで女給となる。 同僚の薦めで俳優プロダクションの新人募集に応じ、女優の道へ。 京都の演劇、村田栄子一座で舞台『正チヤンの冒険』に代役主演、映画の東亜キネマ等持院撮影所で香住千栄子の芸名で新スターになる。 中堅女優のリストラに抗議して退社後、剣劇スター市川右太衛門、市川百々之助らのプロダクションに迎えられ、帝国キネマに移り、浪花千恵子に改名。

 昭和3(1928)年20歳、松竹に入社し大阪へ、新潮座など新派の舞台で経験を積んだあと、昭和7(1932)年に二代目渋谷天外の松竹家庭劇へ、ほどなく天外と結婚。 座長の妻として、他の女優がやりたがらない老け役や小さな役も引き受ける。 終戦から3年、昭和23(1948)年曽我廼家五郎が亡くなり、彼の劇団と合流、松竹新喜劇を結成する。

 昭和26(1951)年43歳、天外が新人女優との間に子を作ったことをきっかけに離婚し、松竹を退社する。 二人に子はなかった。

 昭和27(1952)年、花菱アチャコと共演のラジオドラマ『アチャコ青春手帖』がスタート、昭和29(1954)年に始まった『お父さんはお人好し』で人気が全国区になり、映画化もされた。 昭和28(1953)年の溝口健二監督『祇園囃子』でブルーリボン助演女優賞を受け、黒澤明『蜘蛛巣城』、小津安二郎『彼岸花』、豊田四郎『夫婦善哉』、内田吐夢『宮本武蔵』など巨匠の作品への起用が相次ぎ、亡くなるまでの約20年間で200本以上の映画に出演した。 テレビでも、大河ドラマ『太閤記』(昭和40(1965)年)で秀吉の母役を演じ、『細うで繁盛記』などで、お馴染みの顔になった。

 昭和41(1966)年頃、京都嵐山の天龍寺の隣に料理旅館「竹生(ちくぶ)」を開き、養女にした姪の輝美と経営した。(跡地に福田美術館が建っているそうだ。) 昭和48(1973)年12月、消化管出血で亡くなる、66歳だった。