道頓堀と芝居茶屋、お笑いのルーツ<等々力短信 第1143号 2021(令和3).5.25.>2021/05/20 06:59

 14日が千秋楽だった浪花千栄子がモデルの朝ドラ『おちょやん』は、大阪ミ ナミの道頓堀が舞台だった。 主人公竹井千代(毎田暖乃(子役)・杉咲花)は 貧しい家に育ち、9歳で道頓堀の芝居茶屋に「おちょやん=小さな女中」とし て、奉公に出る。

 大阪は6~7千年前、ほとんどが海で、大阪城のある場所を先端とする上町 台地が海の中に伸びていた。 江戸時代、湿地帯だったミナミのあたりに、道 頓堀川が人工的に開削され、土砂を両岸に積み上げ、埋め立て地をつくった。  古地図では、町はずれ、道頓堀川の南側は、田畑だ。 テレビに毎日映るグリ コ看板の戎(えびす)橋から、日本(にっぽん)橋まで、南に川沿いに建物が 一列並び、その後ろが商店街になっている。 川側の建物は間口が狭く、それ は江戸中期から変わっていないそうだ。 道を隔てた側の建物は、間口の広い 大きなものが多い。 川側の建物は半地下構造で、階段で川へ降りられる。 実 は江戸時代、川側は芝居茶屋が58軒、道を隔てて芝居小屋が、竹田、豊竹、 角座、中座、筑後と5座あったのだ。 町の端と川を利用して、客を呼び、芝 居茶屋から芝居小屋へ案内し、幕間に食事や休憩をとる。 芝居町として栄え たのだ。

 『おちょやん』では喜劇王・須賀廼家万太郎(板尾創路)、曽我廼家五郎(1877 ~1948)が明治37(1904)年曽我廼家十郎とともに劇団曽我廼家を創立、大 阪俄(にわか)と歌舞伎を演技の基盤として、笑わせる芝居を日本で初めて喜 劇と銘打って上演したのは、道頓堀浪花座だった。 大阪は、カニやフグ、食 い倒れ人形などの立体看板が名物だが、芝居茶屋の前に芝居のハイライトを人 形看板として飾っていた伝統なのだそうだ。

 大阪のお笑いのルーツは、戎橋からさらに南の法善寺、水掛不動尊の先、千 日前というエリアにある。 江戸時代、火屋(火葬場)があり、寺社と東と西 の広大な墓所があった。 やがて東墓地だけを残して、墓所の移転があって、 その跡地では、各種の見世物や興行が行われた。 改良座では、歌舞伎役者鶴 屋団十郎が大阪俄と芝居をミックスさせて演じた。 化け物小屋、「日本力士外 人力士合併相撲」という今日のK-1のような異種格闘技や、「海女の水芸」と いうアーティスティック・スイミングもどき、人体解剖など、近くに遊廓もあ って、男性向けの怪しげなものもあった。

 明治45(1912)年、千日前に大事件が起こる。 西から出た火事が、10時 間にわたり、1キロ以上を焼失した。 寄席や見世物小屋は、モダンな建物の 映画館や劇場に、最先端のエンターテインメント街に生まれ変わった。 エン タツ・アチャコのしゃべくり漫才という新しい演芸も生まれ、現在の「なんば グランド花月」につながる。 この稿、2019年5月18日放送の「ブラタモリ」 大阪ミナミ編に多くを負う。

渋沢栄一が転向し、一橋家に仕えた事情2021/05/20 07:01

5月16日の『青天を衝け』第14回「栄一と運命の主君」で、ようやく「『青天を衝け』と、渋沢栄一の転向<小人閑居日記 2021.2.23.>」に書いた下記の疑問が氷解した。

 「渋沢栄一(吉沢亮)が主人公の大河ドラマ『青天を衝(つ)け』(大森美香作)が始まった。 第一回「栄一、目覚める」で違和感を感じたのは、馬で通る一橋慶喜(草彅剛)にいきなり「渋沢栄一です」と、一橋家に仕えたい旨、申し出るところだった。 用人平岡円四郎(堤真一)はニヤニヤしていたから、打合せはしてあったようだが…。」

「馬で通る」のは、深谷の血洗島界隈ではなく、京都の松ヶ崎(現、左京区) で、「御乗切り」だった。 京都で一橋慶喜は、政争の渦中にあった。 「親が子にする「親孝行」<小人閑居日記 2021.5.9.>」に書いたように、第12回「栄一の旅立ち」で、渋沢栄一といとこの喜作は、江戸で平岡円四郎に出会っている。 一橋家が家臣に人材を集めていて、声をかけられた。 志があるなら、百姓からサムライにならないかというのだった。

横浜焼き討ち計画の中止と、殺人事件を起こして板橋宿の牢につながれている尾高長七郎への手紙で、幕吏に追われることになった栄一と喜作は、平岡円四郎の宅へ行く。 慶喜に従って、京都へ発った平岡が妻のやす(木村佳乃)に残していた一橋家の家臣だという証文のおかげで、京都まで来ることができた。 一橋家に頼らなければ死が待つだけだ、180度の転向を仲間がどう思うか悩むが、長七郎を救う手立てもあるかもしれない。 平岡に会った二人は、慶喜に拝謁して、仕官を決めたいという。 そこで、平岡が「殿は、今、大変に忙しいんだ」がと、一計を案じたのが、松ヶ崎への「御乗切り」、馬に負けないように走れ! だった。

 栄一は慶喜に、「今すでに徳川のお命は尽きてございます。もし天下にことのあったとき、あなた様が大事なお役目を果たされたいとお思いならばどうか、この渋沢をお取立てくださいませ」と言い、慶喜は「言いたいことはそれだけか」、平岡に「そなたの仕業だな」。 明日、屋敷へ、となる。

数日後、拝謁。 質素な部屋。 意見書も手渡してある、簡潔に述べよ。  「ご公儀は、積み重ねた卵のようにもろく崩れる。一橋家の勢いを上げることだ。建白を深く慮って頂きたい。大きくなって頂きたい。天下の志士が集まれば、この一橋が生き生きするに違いねぇ。幕府や大名たちからは一橋を成敗だなんて話も生まれちまうかもしれません。万が一そうなったら、やっちまいましょう!その時はこの一橋が天下を治めるのです!」

慶喜「話は終わったようだ。出るぞ」 平岡「お手間を取らせました」 慶喜「無作法は、あの時(平岡が小姓に上がって、下手下手ご飯をよそった)ほどでなかったから、驚かなかった」

平岡円四郎は、栄一に、「攘夷って考えはこの世から消える。攘夷攘夷と異人を殺したり、勝手やった奴らの尻拭いをしながら必死に国を守ろうとしてんのが、おめえらが憎んでるご公儀だ。我が殿も毎日一切合切を相手にしながら一歩も後に引かねぇ強情もんだ」「この先は一橋のために、きっちりと働けよ!」

無作法に、攘夷や大きな志を主張する若者に、何か光るもの、可能性を見出した平岡円四郎は、渋沢栄一にとって大恩人で、その恩は計り知れないというほかない。