慶喜、薩摩藩主導の朝廷参与会議をつぶす2021/05/21 07:17

 『青天を衝け』第14回「栄一と運命の主君」で、平岡が「殿は、今、大変に忙しいんだ」というあたりの動きは、こうだ。 将軍後見役の慶喜は、14代家茂が京都に来ていて、朝廷参与会議の親藩松平容保、松平春嶽ばかりでなく、外様の島津久光、伊達宗城、山内容堂に、お酌するのを、徳川将軍の権威に関わると、苦情をいう。 慶喜は、島津久光の意向に沿って動いている朝廷、中川宮に苦言を述べ、参与会議は消滅。 主導権を幕府に戻したと、一橋家では、烈公の唱えていたように「快ナリ!」と祝杯を挙げる。 見習いの栄一と、喜作も、酒を飲むことができた。

 あらためて、この頃の動きを、若い時に読んだ、河北展生さんの『幕末の政争』(講談社現代新書・1968(昭和43)年)で見てみた。

 文久3年12月晦日、慶喜、容保、宗城、容堂、春嶽、久光が、朝政参与を命じられる。 久光が提案した朝廷参与会議では、賢明諸侯が公卿の中に加わって朝議に参加するのだが、公卿間に最も影響力の強い薩摩藩の意見が採用される可能性が大きい。 すなわち朝議は諸侯の意向をも反映し公平な政策を決定するという形をとりながら、実際には薩摩藩が主導権を掌握することになる。 しかも一度ここで決定されたことは、諸侯の意向をも聞いたうえで決定されたことになり、幕府はその命令に反抗しにくくなる。 参与会議が将軍より上位にあるという姿になる。 すなわち幕府が朝廷参与、すなわち諸侯会議(実質的には薩摩藩の意向)に支配されることになる。

ほぼ同時の直前、12月22日に、春嶽が提案し、慶喜がただちに同意した二条城会議が開かれた。 二条城は、幕府の京都における本拠地。 賢明諸侯の二条城会議の議決事項を、幕府が聞いて朝廷に奏上する。 朝廷も諸侯会議の意向によるものとして、これを無下に拒否できないことになる。 そうなれば二条城会議は幕府の諮問機関としての地位を与えられる。 その会議には、薩摩藩の支持者である公卿は参加しない。 しかも会議の参加者は公武合体論者たる慶喜、春嶽、容保、宗城、容堂らであり、久光の意見は必ずしも貫徹しない。

 二つの諸侯会議が同時に開催されると、朝廷参与会議のほうは多分に形式的に朝廷の下問に答えるための集会ということになり、実質的に意見の討論を行ない、問題を審議するのは、二条城会議で行なわれるようになってしまった。 その意味で薩摩藩の意見が朝廷に強く反映することはなくなってしまったので、薩摩藩は不満だった。 12月27日には、将軍が再上洛のため江戸を出発し、元治元(1864)年を迎えた京都では、諸侯会議を中軸とする新政治体制の下で、念願の公武合体が実現する可能性がきわめて大きく見えたのである。

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