生活スタイルの基礎をつくった広尾の6年半2021/05/26 06:11

 広尾ハイツでの6年半の思い出は、いろいろある。 8階建、62戸の上の方の階に、当時「新宿の女」「女のブルース」「圭子の夢は夜ひらく」で売り出し中の藤圭子が住んでいて、花束を抱えて帰ってきたのと、エレベーターで一緒になったりした。 結婚前の前川清がよく緑色の派手なスポーツカーで迎えに来て、広尾ハイツの横に停めていた。

 海外有名画家のアトリエの写真で有名になる前だった写真家・南川三治郎さんも、上階に住んでいて、前の道で風呂敷を背負い月光仮面の格好をしたお弟子さんをオートバイで走らせて撮影したりしていた。 2005(平成17)年3月、魚籃下の寺へ墓参に行った帰りに、久しぶりに広尾に回ってみたら、商店街のKATOという額屋さんの上の画廊で、たまたま南川三治郎さんのイコンの展覧会をやっていたので覗いたことがあった。 それで、2007(平成19)年12月、銀座和光に南川三治郎さんの写真展「日・欧巡礼の道」日本編/熊野古道を見に行って少し話をし、翌年1月には欧州編/カミーノ・デ・サンティアゴを東京ミッドタウンの富士フイルムスクエアで見たりした。 南川三治郎さんは、惜しいことに2018(平成30)年2月に72歳で亡くなった。

 広尾での6年半は、その後の生活スタイルの基礎をつくった時期でもあった。 1968(昭和43)年の第一回から通っていた国立小劇場の落語研究会にはバスで広尾に帰ってきていた。 1973(昭和48)年4月に発足した福澤諭吉協会に加入させてもらった。 昨日も書いた「広尾短信」(現、等々力短信)の創刊は1975(昭和50)年2月、ハガキ通信として始め、免許更新の代書屋が使っていた和文タイプで原紙をポチポチ打って小型の謄写版で刷っていた。

 字が下手なので、祥雲寺の寺域内の香林院へ習字に通い、鈴木桐華先生に教えて頂いたが、少しもものにならず、相変わらず拙い字を書いている。 ネットで検索したら、鈴木桐華先生は本名虎之介、松井如流門下で少字数書を切り開いたという偉い方だった。 2007(平成19)年、83歳で亡くなっていた。

 KATOという額屋さんでは、森義利さんの職人シリーズの合羽摺りなどの版画を何枚か求めた。 上に掲げたのは、その一枚で、この《畳屋》のほか、《藍染屋》がいま寝室に架けてある。