「智弁秀逸」平岡円四郎、西郷隆盛の危惧2021/05/30 07:37

 『青天を衝け』「篤太夫、薩摩潜入」のつづき。 西郷「誰が言うたか忘れたが…、(平岡)円四郎は「智弁秀逸」、(橋本)左内は「才識高邁」と言われたが、井伊の赤鬼にやられてしまった(井伊大老に慶喜が謹慎させられた時、大した身分でもなかった円四郎も甲府勝手小普請に斥けられたと、幸田露伴『渋沢栄一伝』(岩波文庫)にある)。円四郎殿も気を付けなければ…、先が見えすぎると、非業の最期をとげる。」

平岡円四郎は当時、「天下の権朝廷に在るべくして朝廷にあらず幕府に在り、幕府に在るべくして幕府に在らず一橋に在り、一橋に在るべくして一橋に在らず平岡・黒川に在り」と評されていた。 用人格の黒川嘉兵衛(みのすけ)も旗本の出で一橋家に勤めた。

 家老並となった平岡円四郎は、篤太夫と成一郎を、20~30人の人材募集のため関東出張を命じる。

 「紀行」では、天保山台場や、土佐堀筋に薩摩藩邸があったこと、折田要蔵は明治になって湊川神社宮司になり、湊川神社には薩摩から贈られた150年のオリーブの木がある、とやっていた。

 本日の回は「恩人暗殺」だそうだが、慶喜の動向は、こんなことになるのだろうか。 5月、摂海沿岸視察。 6月、平岡円四郎暗殺。 7月、禁門の変で、会津藩、桑名藩、大垣藩、薩摩藩等の在京諸藩勢力の総指揮を取り、長州藩勢力を禁裏から撃退した。 慶応元(1865)年、政務輔翼を命じられた。 慶応2(1866)年7月31日、慶喜は総督職を辞任し、徳川宗家を相続した。 その際に役職としての禁裏御守衛総督は自然消滅した。