身近な地名、芝白金三光町、戸越、九品仏 ― 2021/06/04 07:06
池澤夏樹さんの「また会う日まで」には、身近な地名が出てくるので、物語に入りやすい気がする。 大正11(1922)年4月25日、秋吉利雄とチヨが婚姻の秘蹟を受けたのは、東京芝白金三光町の聖公会三光教会だった。 聖ステパノ教会、聖十字教会、喜望教会の三つが統合されてでき、たまたまその敷地が三光町にあったこともあって、この名が付いた。
私の父・忠三郎は、明治44(1911)年7月15日、地獄の釜の蓋の開く日に、山形県の鶴岡で生まれ、兄と姉がいて、どういうわけかわからないが、幼くして東京芝白金志田町の馬場の家の養子になった。 沢山の支那そばの屋台を差配するような家だったらしく、一時は繁盛して養父は草津の芸者を揃いの浴衣で総揚げしたとかいう伝説も聞いたが、戦後は病院の守衛のようなことをしたりして、ときどき中延の家に小遣いのパチンコ代をもらいに来ていた、「芝のお祖父ちゃん」の記憶が私にもある。 志田町から通ったのが三田台町の御田(みた)小学校で、小泉信三さんや阿部章蔵(水上滝太郎)さんもここに通ったことを後に知った。 大正12(1923)年9月1日の関東大震災の時は12歳、小学6年生だったか、避難したと言っていた。 母は後年、当時の父のことを「志田町を這いずり回っていた」と、ストレートに言っていた。 実は現在、父も母も、御田小学校の隣の寺に眠っている。
三光町は志田町の隣町だ。 関東大震災、東京の広い範囲が火事で焼け落ち、沢山の死者が出たが、三光教会はそれほどの被害ではなかった。 教会でも、木挽町の聖パウロ教会、深川の聖救主教会、明石町の聖三一教会、月島教会、深川真光教会、浅草の聖ヨハネ教会、下谷の神愛教会、神田基督教会、小川町の諸聖徒教会、上二番町の聖愛教会などは全焼してしまった。
これもさほど被害はなかったという秋吉利雄とチヨの家は、荏原郡の戸越にあった。 戸越は、後に私が生まれ育った中延の隣である。 福永末次郎は、大正15(1926)年6月、三井銀行の福岡支店から東京本店に異動になり、ひとまず戸越の秋吉家で暮らした。 文彦は1歳3か月、武彦はすぐ近くの宮前尋常小学校に通った。 私は、中延と小山を合わせたという延山(えんざん)小学校だったが、宮前小学校の名前は、家からごく近い大原小学校(選挙の投票所)とともによく聞いていた。
昭和9年、益田ヨ子(よね)との再婚が決まり、秋吉利雄がヨ子を子供たち、文彦と洋子に会わせることにしたのは、九品仏の自宅だった。 私が今、住んでいる近くである。 秋吉利雄はヨ子を九品仏の駅まで迎えに出る。 「並木道を北へ、浄真寺の方へ進み、途中を左に折れる。家までは五分だった。」 「九品仏は踏切の向こうに商店街があって、八百屋、魚屋、乾物屋、一通り揃っている。最近、肉屋でコロッケを買うのが近隣ではやっている。豚カツもあるとか。」 我が家は、この商店街の側の、奥沢駅方向へ坂を上がった所にある。 秋吉家は、我が家の好むローレルという、ちゃんと作っているケーキ屋さんの裏手のあたりに当たる。
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