『知恵泉』永六輔『夢であいましょう』秘話2021/06/06 07:18

 1日のテレビ番組表に、NHK Eテレ午後10時『知恵泉』、「テレビ草創マルチな才能!永六輔夢であいましょう秘話ラジオに転身した思い黒柳徹子」とあったので、録画して見た。 『夢であいましょう』は、懐かしい番組で、いろいろな思い出がある。 後には、末盛憲彦ディレクターの夫人、末盛千枝子さん編集の絵本にファンレターを出したことをきっかけに、千枝子さんが大学同期の卒業と判明、ずっとお付き合いを頂いている。 ご存知でしょうが、と番組のことをメールしたら、「先日、話を聞きたいと連絡があって、かなり話したのに、その後どうなったのかなと思っていました。おかげで間に合った、息子たちにも連絡します」と返信があった。 NHKの後輩は手抜かりで、先輩ディレクターの一所懸命に学ぶべきだ。

 番組で永六輔が日本テレビの『光子の窓』(井原高忠演出)を、1960(昭和35)年安保反対のデモに番組を放り出して行っていて、クビになり、末盛憲彦さんが『夢であいましょう』を始めるのに引っ張ってくれて、救われた恩人だとやっていた。 『夢あい』は、1961(昭和36)年4月に始まり、1966(昭和41)年3月に終わった。

 末盛千枝子さん発行の私家版『テレビディレクター 末盛憲彦の世界』をパラパラと読む。 『夢あい』と末盛憲彦さんについて、ジャニー喜多川ジャニーズ事務所社長が、こう語っている。 「スターの素質を見抜く目が抜群だったと思う。いろいろな思い出があるけれど、『夢あい』の時のジャニーズがお付き合いの始まりです。今月の歌の田辺靖雄の「いつもの小径で」のバックに男の子が要ると聞いて、ジャニーズを連れていった訳ですが、「何か衣裳を探しましょう」、といって、一緒に銀座のデパートを一日中歩きまわったのです。あんまり若いし、腰が低いので、アシスタントだと信じていたのですがスタジオに行ってみて、ディレクターだったので、本当に驚きました。今月の歌のバックに出て、次の週のリハーサルの時に、前回のキネコを見た時、他の出演者達が「なあにこれ、なんて下手なの」といって笑いました。すると、その晩ジャニーズに徹夜で練習をしてくれたんです。自分で歌いリズムをとりながら、それで翌日に本番には、すこし良くなっていた。そして次の週の為には一週間みっちり練習してすごく良くなった。そして次の週、即ち一ヶ月後にはすっかり人気者になっていて、レギュラーになったのです。忘れられないスタートです。」

 黒柳徹子が番組で、『夢あい』はみんながテレビを持っていなかった時代なので(生放送だったこともあろう)、出演者達は見ていなかった、ビデオもなく、NHKの前回の録画を見て、皆こう映っているんだと知ったと話していた。 それが「キネコ」だろう。 「キネコ」は、キネレコともいい、kinescope recorder 「テレビやビデオの映像信号から、フィルム映像に変換する装置。また、その工程。」