攘夷最中の長州へ、長州征伐に学生出さず2021/06/15 07:06

 閑話休題、ようやく元治元(1864)年を迎えた。 29歳の福沢諭吉は3月23日、江戸を立って中津に帰省、6年ぶりに母と対面、中津滞在約2か月、小幡篤次郎始め6人の青年を伴い、6月26日帰京した。 平岡円四郎が暗殺された6月のことである。 中津からまず船に乗って出帆すると、二、三日天気が悪くて、生憎のこと、攘夷最中の長州室津という港に入った。 洋学者に対する迫害を憂慮し、同行の青年の名を借りて、三輪光五郎(後年、目黒のビール会社に勤務)と名乗っていたが、ちょっと上陸して髪結床へ行ったところが、床の親仁が「幕府を打(ぶ)っ潰す」「毛唐人を追い巻くる」とか言い、女子供が面白そうに「やがて長門は江戸になる」と唄っている。

 江州水口では、中村栗園先生の門前を素通りせざるを得なかった。 中村栗園先生は、父の百助とごく親しく、福沢が初めて江戸に出た時に訪ねると、大変喜び、父百助が大坂の蔵屋敷で亡くなった時、すぐ大坂に行き、中津に帰る一家を安治川口の船まで送ったが、その時三つのお前を抱いて行ったと、話してくれた人だったのだが…。

 7月「禁門の変」があり、朝廷が幕府に長州藩追討を命じて、第一次征長戦争となる。 長州藩に朝敵の銘が付く、将軍御親発となって、幕府から九州の諸大名にも長州に向かって兵を出せという命令が下った。 豊前中津藩からも兵を出す、江戸に留学している学生、小幡篤次郎をはじめ十人がいた。 それを出兵の御用だから帰れと言って呼び返しにきたのに、福沢は不承知だ。 この若い者が戦争(いくさ)に出るとは誠に危ない話で、流れ弾に中って死んでしまうかもしれない。 こんなわからない戦争に、大事な留学生に帰って鉄砲を担げなんて、そんなことをするには及ばない。 構うことはない、病気と言って断ってしまえ、一人も還さない、それがまかり間違えば、藩から放逐だけの話だ。 長州征伐という事の理非曲直はどうでもよろしい、とにかく学者書生の関係すべきことでないから、決して帰らせない、と頑張った。 藩の方でも、強いて呼び返すということもせずに、その罪は中津にいる父兄の身に降り来たって、何でも五十日か六十日の閉門を申し付けられた。

 10月、福沢は幕府に召し抱えられ、外国方翻訳局に出仕する。 禄高百五十俵、正味百俵ばかり、幕臣、旗本となったわけだが、江戸の一般の慣例だと、旗本は殿様と言うのだが、もとより自分で殿様なんて馬鹿げたことを考える訳もなければ、家内の者もその通りで、平生と少しも変ったことはない。 ある日、幕府の福地源一郎だったかが玄関に来て、「殿様はお内か」と尋ね、取次ぎの下女が「イーエそんな者は居ません」と、しきりに問答しているのを聞いて、玄関に出て、座敷に通したことがあった。