福沢の「大君のモナルキ」2021/06/18 07:10

 なぜ福沢は、『福翁自伝』に「幕府に対しても、いわゆる有志中には種々さまざまの奇策妙案を建言する者が多い様子なれども、わたしはいっさい関係せず」(「再度米国行」)と書き、「長州再征に関する建白書」に触れていないのか。 静岡県立大学国際関係学部助教の平山洋さんは、『福澤諭吉』(ミネルヴァ書房)の中で、この時期の福沢の行動が、後の明治政府の関係者への敵対行動だったからであろう、と指摘している。 そして、参与会議が召集された元治元(1864)年春から二度目のアメリカ旅行直前の慶應3(1867)年春までの三年間、福沢は一人の旗本として幕府再建のための政治活動をしていた形跡があり、具体的には禁裏守衛総督徳川(一橋)慶喜への情報提供であるとする(篤太夫の渋沢栄一と同じことをやっていたのか)。 維新後にそうした活動が露見すれば報復はまぬがれなかったはずで、それでなくとも福沢は明治6、7年の頃まで夜分の外出を控えたり、旅行でも変名を使ったりしていたのであった、と言う。

 平山洋さんは、福沢のこの「長州再征に関する建白書」が、幕府内で検討されたかどうかは分からない、という。 というのも、7月20日に大坂城内で若干21歳の将軍家茂が亡くなり、幕府は一時首班不在となっていたからである。 京都にいた一橋慶喜が暫定的にその任にあたることになり、一度は戦争継続が確認されたが、8月1日に幕府方の小倉城が陥落したのを機に休戦交渉が開始され、9月2日に広島に出向いていた幕府代表の軍艦奉行勝海舟らと、長州の木戸孝允・井上馨らとの停戦合意がなされた。 福沢「建白書」が、軍艦奉行並木村喜毅から老中小笠原長行に渡されたのは、9月6日であった。

 これより先の8月20日、第14代将軍家茂の発喪と同時に、その後任として慶喜が徳川本家を継ぐことが公表された。 父斉昭が、彼を将軍職に就けるべく江戸城に強行登城したのは、ちょうど8年前の安政5(1858)年8月であった。

 福沢は、慶應2(1866)年11月7日付の福沢英之助宛書簡で、当時長州藩や薩摩藩が唱えていた大名同盟論に対抗して、「大君のモナルキ」でなければ文明開化は進まないという主張を披瀝していた。 「大君のモナルキ」は、将軍による一元的統治を指す、福沢の造語である。 福沢英之助は、中津藩士の門下生和田慎二郎の変名で、彼は幕臣福沢諭吉の弟という触れ込みで、幕府派遣イギリス留学生の一行12名の中に加わるのを許されていた。 この書簡で福沢は、当時の政治状況全般について、自身の持論でもあった大名同盟が模索されているが、誰も彼もが意見を言い合うと結局「大名同士ノカジリヤイ」に帰結して収拾がつかなくなるので、どう考えても「大君のモナルキ」を選択する以外に文明開化を推進する方法はないと、書いている。

 平山洋さんは、「大君のモナルキ」とは、征夷大将軍による君主制を意味しているとし、福沢は『福翁自伝』の空白期間に、長州の取り潰しを図っていたばかりではなく、将軍を日本の君主とする新たな体制を樹立するために働いていたことが分かるのである、とする。

『福澤諭吉事典』は、福沢は同年刊行した『西洋事情』初編において、立憲政治には「立君独裁」と「立君定律」の二種があるとし、後者は「コンスチチューショナル・モナルキ」(立憲君主制)の訳であることが示されているが、「大君のモナルキ」がいずれの政体を想定していたのかは確定できない、としている(「編集委員会」)。