吉原からネットワークで江戸文化を出版・発信2021/06/24 06:52

 蔦屋の成し遂げた仕事についての、田中優子さんの解説を読んでいこう。  蔦屋重三郎は、寛延3(1750)年旧暦正月7日、吉原に生まれた。 叔父は仲之町通りの茶屋、尾張屋の経営者であり、義兄は五十間道の引手茶屋・蔦屋次郎兵衛であったという。 家族・親族がほとんど「廓者(くるわもの)」という環境に生まれた重三郎にとって、吉原は故郷であり、隅々まで知っている自分の町だった。 まず、義兄の引手茶屋の軒先を借りて、本を商ったり、貸本をしていたらしい。

 そして満24歳になった安永3(1774)年、版元・鱗形屋孫兵衛の『吉原細見』の「改め」および「卸し」「小売り」の業者となった。 「改め」とは、調査、情報収集、編集、つまり改訂作業を行うことだった。 その立場で、重三郎は『細見嗚呼(ああ)御江戸』の仕事をした。 その序文は、鬼外福内こと平賀源内が書いている。 しかし、源内は吉原に出入りしない人だった。

 戯作者・朋誠堂喜三二は、手柄岡持(てがらのおかもち)の狂名を持つ狂歌師でもあって鱗形屋に出入りしていたが、実は出羽久保田藩(秋田佐竹藩)の江戸留守居役・平沢常富(つねまさ)で、役目柄吉原に精通していた。 『細見嗚呼御江戸』刊行の前年、平賀源内は秋田の鉱山開発の調査を行っており、朋誠堂喜三二と密接な関係があった。 平賀源内は、鬼外福内の名で浄瑠璃の人気作者でもあった。 『細見嗚呼御江戸』の序文に鬼外福内を起用して、出版物に付加価値をつける発想をしたのは、重三郎だと考えられる。 蔦屋重三郎の仕事の基盤は、鱗形屋を介してつながるネットワークのただ中にあり、ひとつは生まれた町である吉原に、もうひとつは鱗形屋を中心とする出版界に、大きな可能性をはらむ地盤を持っていたのである。